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天正伊賀の乱激戦地、比自山に行ってきました。
伊賀が乱を起こしたのではないので「天正の伊賀攻め」とでも言うべきものですが。 ![]() 常住寺を抜け松寿院供養塔の前を通りふるさと芭蕉の森公園から山の嶺を目指し最後の芭蕉句碑 には向かわず山道に入りました。 ![]() この階段はの登らず右に向かいました。 常住寺をスタートしふるさと芭蕉の森公園の山道から比自山城址を経て西蓮寺への道前まで行き、 引き返しましたが帰り道で迷い二筋ほど東の道に入ってしまい、笹や木をかき分ける薮漕ぎ(やぶこぎ) という、かき分けかき分け進む行為の連続になってしまいました。 『信長公記』『多聞院日記』には天正9年9月3日に攻撃開始との記述がありますが、伊賀の『伊乱記』では 9月27日に6か所から攻め入ったとあります。 伊賀の峠を越えて四日で平楽寺を攻め落とし五日目からは北伊賀てれは比自山のみの抵抗となった。 織田勢、蒲生(七千人)は比自山の東麓に陣、脇坂、山岡勢は東北の仏性寺に筒井勢(計三千七百人)は 南方西蓮寺に堀、多羅尾勢(二千三百人)は木根村山の口(西光寺口)に陣をひいた。計一万三千人の 大部隊が直接対戦さらに木津川東岸に丹羽長秀、滝川一益、藤堂将監景久(一万二千人)らが小田、 平井神社から木興にかけて布陣、計二万五千人が伊賀勢三千五百に備えました。 ![]() 下に見えるのが堀切 五日目夜、門を開き、伊賀勢、富岡新八郎、町井清兵衛、加藤熊之助らが山を駆け下りる。富岡新八郎、 木根西光寺口を襲い堀勢の軍監安藤将監の首を取る、富岡新八郎、炮烙玉を撒き散らし突進、が織田方 に木根村から多羅尾軍に散らされる。 ![]() 上から石や大木を落としたと言われる山から 七日目織田勢、十時頃比自山中腹で激突、仕掛け穴や伏兵などで抵抗、それでも織田勢一気に押し寄 せるが山上から追い落とされた。その間、横山甚助、長岡山の蒲生氏郷に切りかかるが逃げられる。 森四郎左衛門と高田郷助、後、槍森、薙刀郷助と語り継がれる伊賀方活躍。この戦いで織田勢、 二千五百の死傷者をだす伊賀勢にとって奇跡的な大勝利 九日目織田方、比自山に攻め上るが伊賀方全員ちりちりに逃げ、もぬけの殻だった。 ![]() 帰り道で迷い薮漕ぎ(やぶこぎ)が40分以上続きやっと紅葉道が見えた時はほっとしました。 ![]() 比自山方面から伊賀上野城を遠望 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020年11月09日 12時50分56秒
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