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![]() 息速別命(いこはやわけのみこと、おきはやわけのみこと)古事記や日本書記にも伝わる 古代日本の皇族。 その墓といわれる宮内庁管理の墳墓 第11代垂仁天皇の皇子とされます。 10代天皇までは神話の中の世界といわれ実質初代天皇です。 この天皇は3世紀後半から4世紀後半前半の人と思われます。 伊賀国造(いがのくにのみやつこ) 先代旧事本紀』「国造本紀」には、成務朝に垂仁天皇の皇子である意知別命の3世子孫・武伊賀都別 命が伊賀国造に任じられたとされます。 また同天皇の皇子・息速別命を祖とする説ある。允恭朝(5世紀前半)に4世子孫の須珍都斗王が阿保姓 を与えられました。 いずれにしてもこの息速別命が伊賀国造 (いがのくにのみやつこ)より一世紀ほど先に伊賀に、 入った皇室ということになり伊賀という言葉の元になった人ということになるかと思われます。 ![]() 息速別命の墓(阿保親王墓) 奥に宮内庁所管の陵墓があります。 阿保氏(あぼうじ、姓は君)で、一時は建部(健部)氏を名乗る。雄略朝の意保賀斯が武芸に秀でて いたため武部(健部)と改姓するが、延暦3年(784年)に人上が阿保朝臣を賜り、同族が阿保公となった。 近江国の小槻氏も貞観年間に改姓するが、こちらは息速別命の異母兄弟の落別命の末裔。 国造の本拠は伊賀国伊賀郡阿保村で、現在の三重県伊賀市(旧青山町)にあたります。 ![]() 阿保頓宮跡があります。 阿保頓宮跡は息速別命墓の東側にがあり、入口に標識がありました。 伊賀国に宮室を造って住んだということで頓宮跡が残っています。 阿保に宮室を築いてお住みになっていたことから、通称は『阿保親王』と呼ばれ、その子孫も代々 阿保の地に住み、第19代允恭天皇のとき居住地の名により『阿保』という姓を賜ったといわれます。 ![]() 阿保頓宮跡碑 その標識を登ったら城跡のような台地があり石碑があります。 ![]() 跡地は思ったより高く広いものでした。 ![]() この平地状の地が数カ所あり後の世には城郭としても使われていたと思われます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021年02月14日 09時55分40秒
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