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平井神社 本殿
『「伊賀誌」に「孝謙天皇御宇天正勝宝三年(751)伊賀疫行天皇立使以小田庄祭大己貴命・事代主命於此疫鬼鎮焉」』 とあり、疫病鎮めるため751年に創祀され 『「平井神社由緒記」に「延長元年(923)九月事代主命平井天神宮と須氏神と崇める」』 とあるので923年に事代主命(ことしろぬしのみこと)を氏神と祀り平井天神宮とされたのでしょう。 『「伊水温故」「三国地誌」によれば菅原道真公縁の梅が九州大宰府より飛来したと云う縁起をもち飛来天神宮とも称され旧小田村字東出(往古は平井)に鎮座とある。』 これがいまだに神社名、平井神社 通称、飛来天神宮とされる所以でしょう。現在は度会郡の白拍子が苗木を持って来たという説が有力です。 『「兼右郷記」に永禄一一年(1568)伊賀国守護職仁木長政の招きにより吉田兼右が京都より上野丸山(旧小田村鉄砲場)の新城の地鎮祭を執行「幣串近所之天神内陣」に奉納とあり、当社の事であると思われる。』 戦国時代の伊賀守護仁木氏の館の地鎮祭をおこなったようです。 『明治三年九月稀有の大洪水に全村民家浸水流出の難に遇った。当村移居係村田順造は旧藩主藤堂家及び県知事に現在地の土地払い下げを嘆願し、明治六年許可なり、地名を明治屋敷と名付けた。村民移転の後、明治一〇年一〇月神社を建立、平井天神宮(八重事代主命)境内社津島社(素戔嗚尊)並に同村字西出の春日神社(天児屋根命,武甕槌命,経津主命,天鈿女命)境内社津島社(素戔嗚尊)更に同村字東出の疾追神社(疾風神)を合祀し、社名を平井神社と改称した。』
◎安政二年(1856年)に二度の洪水、また明治三年には全村民家浸水流出の難に遭ったようです。西を流れる「木津川」、北を流れる「服部川」とに挟まれた地。いずれかが氾濫したようです。 右側に説明文碑があります
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Last updated
2024年09月22日 13時15分35秒
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