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伊賀へいらっしゃい

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2024年08月27日
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平井神社 本殿




平井神社「由緒」を判読してみました。

『「伊賀誌」に「孝謙天皇御宇天正勝宝三年(751)伊賀疫行天皇立使以小田庄祭大己貴命・事代主命於此疫鬼鎮焉」』

とあり、疫病鎮めるため751年に創祀され

『「平井神社由緒記」に「延長元年(923)九月事代主命平井天神宮と須氏神と崇める」』

とあるので923年に事代主命(ことしろぬしのみこと)を氏神と祀り平井天神宮とされたのでしょう。

『「伊水温故」「三国地誌」によれば菅原道真公縁の梅が九州大宰府より飛来したと云う縁起をもち飛来天神宮とも称され旧小田村字東出(往古は平井)に鎮座とある。』

これがいまだに神社名、平井神社 通称、飛来天神宮とされる所以でしょう。現在は度会郡の白拍子が苗木を持って来たという説が有力です。

『「兼右郷記」に永禄一一年(1568)伊賀国守護職仁木長政の招きにより吉田兼右が京都より上野丸山(旧小田村鉄砲場)の新城の地鎮祭を執行「幣串近所之天神内陣」に奉納とあり、当社の事であると思われる。』

戦国時代の伊賀守護仁木氏の館の地鎮祭をおこなったようです。

『明治三年九月稀有の大洪水に全村民家浸水流出の難に遇った。当村移居係村田順造は旧藩主藤堂家及び県知事に現在地の土地払い下げを嘆願し、明治六年許可なり、地名を明治屋敷と名付けた。村民移転の後、明治一〇年一〇月神社を建立、平井天神宮(八重事代主命)境内社津島社(素戔嗚尊)並に同村字西出の春日神社(天児屋根命,武甕槌命,経津主命,天鈿女命)境内社津島社(素戔嗚尊)更に同村字東出の疾追神社(疾風神)を合祀し、社名を平井神社と改称した。』
とありこの場所には明治十年(1877)に村民移転の後、移築建立され飛来天神宮から小田地の神々を合祀し平井神社としたようです。
明治四〇年五月、同村字往古川の山神社(大山祇神)を合祀した。又、白川白瀧稲荷社を祀り護国神社には日露戦争の御霊を祀られています。





参道の階段を登り最後の鳥居

◎安政二年(1856年)に二度の洪水、また明治三年には全村民家浸水流出の難に遭ったようです。西を流れる「木津川」、北を流れる「服部川」とに挟まれた地。いずれかが氾濫したようです。
参道には往時の様子を物語る石碑が参道の左右に建てられていますが明治十二年の北側の碑には避水移居に奔走した小田村役場勤務の村田順造氏を称える言葉がある。しかし南側の三重県知事の碑には名前が無い、「伊賀市史 避水移居」にも記載が無い平成25年度伊賀市史編纂会議での発言に「村田順造の業績には賛否あるが」という個所があり行政側にはわだかまりがあったようです




平井神社 禰宜(ねぎ)の直井佳代さんが色々と熱心に手入れされています。



階段参道左側の漢文石碑

右側に説明文碑があります


要約すると
「移居世話係となった村田順造氏の卓越した指導のもと地区民は一致協力して工事をはじめ完了した。この人々の功績を後世に残すためこの碑が建てられた。」
とあり小田村の移転には村田順造氏がただならぬ尽力をしたことが記されている。




参道階段右側の耕地整理碑 三重縣知事石碑

大正十一年のこの石碑には村田順造氏の名前が無い。
また「伊賀市史 避水移居」にも記載が無い平成25年度伊賀市史編纂会議での発言に「村田順造の業績には賛否あるが」という個所があり行政側にはわだかまりがあったようです。

 














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Last updated  2024年09月22日 13時15分35秒
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