※今回の記事は、場合によっては気分よく読めない場合があります。
わたしの活動や思想に同意できない方は、それで構いませんので、どうかコメントはお控え願います。(削除することになります)
とんぼ玉研究所(とんぼ玉体験教室)を開くにあたり、自分が発達障害者だということを最初から言うのは、もしかしたら不利になるのではと恐れているため、あまりおおっぴらに言おうとは思っていません。
そういうことを言って、
「発達障害を持ってても教室出来るんですね~」
とか言われるのも嫌です。
少しずつ理解して頂けたらと思います。
でも、そもそもこういうことで恐れなきゃならないのは、本来非常におかしいと思います。
だって、そもそも障害って悪なんですか?
珍しいって、普通じゃないってそんなに悪ですか?
そもそもいつも皆さまが言っている『普通』ってなんですか?
発達障害のことを取り上げている本(当事者が書いた本以外)には大体
「ひとつのことだけにのめりこむ」
「あるものをコレクションする」
「特定の分野だけ非常に博識」
とか、本来いいところまで、さも困った一面であるかのように書いている。
そういう本を見て、何度も思いましたもん。
「え!? これって悪いところなの!?」
って。
どうも、普通の人から見ると、何か一つのことにハマるのは悪いことらしいですね。
こんな本がたくさん増えて、当事者にとって思わぬ弊害が増えてる。
皆さまが普段から言っている『普通』って、そんなにありがたいのですか?
その普通というのはわたしにとって非常に不確かなもので、まるで霧のように見えないもの。
雲のようにつかめないものなのです。
わたしがどれほど手を伸ばしても届きはしない『普通』という理想。
『普通』が理想であり素晴らしいことと洗脳されている(ように見える)、周囲の人たち。
流行というものに身を固めて、わたしから見るとおぼれているようにしか、見えない人たち。
今までそんな人たちに何度会ってきたか覚えていません。
逆に、そんな人がどういう人だったとか、名前はなんだったけ~? とか。
わたしの脳の中に残りすらしないのです。
わたしのような、そういうものになかなか洗脳されないことを
『普通が分からない』『空気が読めない』
と指差して、発達障害と勝手に名づけたのは、そういう顔も覚えられないような人たちなんだと思う。
アメリカではそもそも、
「発達障害のことを『ディスオーダー』というのはどうなのか」
と言われているようです。
この国日本自体、ある種の洗脳が上手い国だと思う。
とにかく
「目立たなきゃいい」「普通が一番」「出る杭は打たれる(こんなことわざがある事態、洗脳の証拠です)」
それが横行してる。
流行などがあるのも、
「○○(芸能人とか)と同じ格好なら最高」
とか、そういう考えなのでしょう。
でも日本もきっと、時間はかかるものの欧米のように
「人と違う意見が言えることは素晴らしい」
「人と違うことは素晴らしい」
そんな世の中が来ます。
わたしたちは人ではなく、この日本社会と戦わなきゃなりません。
だって、今の日本の政党自体個性がないもの。
ぶっちゃけ、総理大臣も顔を忘れるような、個性がない人ばっかり。(※現在の総理がそうだとは言わず、誰でも)
逆に小泉さんはかなり、個性がありましたね。
去年の漢字になった絆というのも、わたしにはよく分からない。
見えないあいまいなものです。
だから「絆が素晴らしい」って言われても、見えないものを素晴らしいっていうのは……。
わたしにはイマイチ分かりません。
人との繋がり自体あいまいで、形を変えてしまう。
わたしにとって分かり易いのはガラス。
逆に分かりにくいのは人間です。
ガラスは形を変えるとき、目に見えるでしょ。
こういうことをすると割れるとか、こうすれば割れないとかすぐ分かる。
だから楽。
でも人間の気持ちは目に見えない。
感じることもできない。
だから辛い。
だからわたしにはなんの覚えもないのに。
ある日突然友達や彼氏に別れを告げられたような、そんな気持ちになった経験がいくつもある。
形を変えるガラスのように、人間の気持ちも目に見えればいいのにね。
そういうのを普通の人というのは、
「空気読めている」とか、言うのでしょうか。
でも完全に人の気持ちが目に見えたら、ノイローゼになっちゃうか……。
こういうことを言うと、
「普通の人だってそんなの分からないことがあるよ」
と言われることがありますが。
それで私は逆に聞くのです。
「じゃあ、発達障害ってなんなの?」
ってね。
残念ながら、一般的に、障害者は不幸だという考えがあります。
また、障害者は何もできないという考えも。
わたしはたまたま発達障害と診断されましたが、他に知的障害の方々や、身体障害の方々は?
ダウン症候群の方々は?
障害にもいろいろあります。
どの障害が一番不幸とか、どの障害がマシとか、本来その重さなんかないはずです。
でも人は、重さをつけたがる。
比べたがるのですが……。
「あの人よりマシ」
とか思うことで、ホッとしたいのかな。
『障害は個性』という考えも、分かる気もしますが、賛同できないところも多くあります。
身近な人の中に、しゃべることができない、でも手話もできない障害を持つ人がいます。
これも個性っていうのは……。
そういう言葉で片付けるのは、何だか安易な気がします。
本人だって、喋れないストレスややるせなさを『個性』ごときで片付けられたらたまらないだろうと思います。
日本は『障害=悪・避けたいもの』というイメージが強くあります。
当事者のわたしが見てそう思うのだから、そうなのです。
こういうことを、とんぼ玉に当てはめるのも安易かもしれませんが。
実は、とんぼ玉だってそうですよ。
どっかで見たものを創っても、何にも面白くないですよね?
世の中に同じような玉がたくさん増えるだけです。
とんぼ玉は千差万別だからこそ面白いのに。
皆さま本当に、お花のとんぼ玉ばっかりなんですよ。
私はそれが嫌で、殆どお花のとんぼ玉は創っていません。
決して、お花が嫌いとかじゃないですが。
みんな水中花を創って。
みんな、同じようなお花の玉を創って。
「あれ? この玉、あの作家さんのと似ている?」
と思うことが多いのですよ。
「この作風は、なんだかあの作家さんみたいだなぁ」
なんて思ったり。
もちろん最初は、マネから入るのは大歓迎ですよ。
とんぼ玉も絵も、上達する重要な秘訣はマネなんです。
でも、最終的にはどこかを変えないと。
自分らしい玉になりません。
幸い、わたしの玉は仮にマネをしても、たぶんわたしの玉になってしまいますね。(-_-;)
(マネも出来ない気がしますが)
「普通と違う」ってどういう意味ですか。
「普通と違う」って、そんなに悪いことですか!?
とんぼ玉だって、よくある玉と違わなきゃ面白くないでしょう。
ですからわたしは幸いにも、皆さまに
「ますみさんらしいとんぼ玉ですね!」
と言って頂けることは、最高のお褒めのお言葉だと思っています。
完璧主義のわたしは、かつては、
「花パーツを創らないわたしはおかしい!?」
「なんかわたしの玉だけ、みんなと違う気がする」
「始めたばかりの初心者の人が、短期間であんなにうまくなって……。
それに引き換えわたしは、まだこれしかできないのか!」
と、嘆くことも多々ありましたが。
わたしの創っているとんぼ玉は間違いじゃない。
これでいいのだ。
現在ではそう思うようにしているのです。
これは、とんぼ玉における『普通』という洗脳が解けた瞬間です。
そもそもとんぼ玉や絵は、創りたいように創ればいい。
描きたいように描けばいい。
「あれを創りたい!」と思ったら、迷わず創ればいいのです。
でもそれでは、どうしたらいいか分からない人が多いから。
教室では、カリキュラムがあるのですね。
わたしってカリキュラムを破る人間でしたね。
点打ちを飛ばして、突然勝手にツイスト棒をやるような人間でした。
だから当時の師匠には変わりモノって思われたみたいです。
でも、最終的に創りたいものを楽しく創れればいい。
ものを創るって、そういうことじゃないでしょうか。
人と違うって、悪でも罪でもないんです。
わたしはそう思います。
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