青函航路異状なし!

2015/09/27(日)22:40

10・4・10・10艦隊計画に至る道、を考察してみる

考察(52)

 昨晩は佐藤大輔氏の著書「征途」に関する考察を述べてみましたが、今日も少々お付き合いいただきたいと思います。  昨日は、おそらく80年代には就役したであろう「こんごう」級イージス搭載大型護衛艦が存在するのに、何故史実では1986年就役のミサイル護衛艦「はたかぜ」級が存在するのか? に関して記述しました。  その後色々思いついたことがあるので、今回はそのあたりを述べたいなと思います。  そもそもこの世界の太平洋戦争は、レイテ島を巡る戦いで史実と異なる展開になった結果、終戦が半月遅れ、結果として北海道北部と樺太に「日本民主主義人民共和国」が樹立しています。  2巻冒頭の合衆国海軍の通知(1947年9月付)では北日本云々とあるので、この時期にはすでに北日本が存在していることを示しています。  同通知には、旧海軍艦艇の取り扱いについても記されていますが、さて、この時点でどのくらいの艦艇が残存していたのでしょう?  作中で明記されているのは、主役たる戦艦「大和/やまと」と、北海道戦争のドサクサで現役復帰した空母「葛城/かつらぎ」です。  その他文章には記されていませんが、重巡「高雄」級とみられる艦艇が新書版2巻の表紙に載ってます。  そこから妄想を逞しくすると、史実で終戦時残存していた重巡「高雄」「妙高」「利根」も生き残ったのかもしれません。  空母に関して言えば、作中で「葛城」のみが終戦時稼働状態にあった、と記されているので、「天城」は史実同様呉空襲で横転したのでしょう。  史実では7月24・25日に呉空襲がありましたが、この世界では沖縄戦が2カ月遅れでスタートしています。7月24日には戦艦「武蔵」を旗艦とした第2艦隊が、史実の「大和」のように艦隊特攻をしました。  台風の影響で、空母部隊が使えず、戦艦同士の砲撃戦の結果、「武蔵」と引き換えに合衆国の戦艦4隻が沈められました。  史実では7月28日にも呉空襲が実施されているので、この日は史実以上に報復として攻撃し、結果として日本側としては史実同様の被害が生じたと思われます。  そして終戦時の日本海軍は、「大和」という要素を除けば、ほぼ史実と同様の規模の残存艦艇が残ったにすぎないのでしょう。  大きく異なる点は冒頭でも記したように、日本が分割占領/北日本成立されていることです。  そのため、大型艦の分野では、外地で終戦を迎え、英国に接収されていた重巡が、日本に返還される可能性が高まるということです。  北日本の南進で始まった北海道戦争をきっかけに新日本海軍たる海上保安庁の元に続々と旧海軍艦艇が押し寄せる姿は中々興味深いですな。  そうして再建された新海軍/海上自衛隊は北日本の海軍に対抗するため、「やまと」「かつらぎ」を中心として艦隊整備を始めたとしても不自然ではないでしょう。  生き残った確率が最も高いのはやはり「高雄/たかお」ですな。  コチラも妄想を逞しくすると、戦後の彼女は新装備の実験艦としても機能していたかもしれません。  合衆国でもボストン級やクリーブランド級がミサイル巡洋艦に改装されてように、征途海自の重巡群もターターを積んだ・・・と想像するのも楽しいものです。  さらにこの世界の海自は「かつらぎ」の他、合衆国から供与されたエセックス級空母「あかぎ」と「かが」があるので、史実では考慮されなかった、空母機動部隊の運用もあります。  その中で艦隊防空が史実以上に研究・強化されていてもおかしくありません。  結果征途海自では重巡改装のミサイル護衛艦を経て、史実よりかなり早く(私は約10年と見てます)ミサイル護衛艦の建造を開始したのでしょう。  んで、ようやく冒頭の疑問に辿り着きます。  その史実より早い流れのなかで、「はたかぜ」と称するミサイル護衛艦が誕生し、3巻での海自機動部隊に名を連ねていた・・・この辺りが真相なのではないでしょうか?  以上は私なりの結論なのですが、この文章は多分に独断と偏見と願望と妄想に満ちています。  至らぬ点はご指摘していただくとありがたいです。  追伸  明日は再び職安に行ってきます。  それではまた・・・ にほんブログ村

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