付け焼き刃では育ちません
付け焼き刃とはちょこっと焼いて、赤くなった鉄を水につける。その繰り返しで、なんとか切れ味が良くなったように見える刀。または、切れ味の悪い刀に、鋼の焼き刃を臨時につけて適当にごまかす。転じて、その場しのぎのために、一時的に知識などを覚えることを意味する語として用いられています。ある中高一貫(県南)の中学に推薦で入った子の話。当時は東大一直線を目的に出来た学校でしたが、まず課せられた課題が、一年で100冊の本を読むこと。読んだ実績を報告せよ。まずはそこからだ。親(まあ、私ですが)もそれはいいことだと、とりあえず20冊くらいの本を購入して「読んだらいがっぺ」と。まさに、付け焼き刃の真骨頂でした。100冊の本を読むことが目的であり結果につながる効果があることは自明なれど、なぜに100冊なのかの「自発性」がないところでの100冊になんの意味もないことに気づいたときは既に遅かった。一事が万事で、中学から高校に上がった内進同級生のほとんどが「挫折」しました。(特に真面目に100冊読んだ子を中心として、ただ読んだ(親に買ってもらった)というだけの抜け殻に過ぎなかった。100冊の本を読むことが目的として課せられるのは本末転倒。100冊でも200冊でも「読みたい」と自発する子に育っていない限り、付け焼き刃は必ずや破綻します。青葉台の教育は、自ら「読みたい」と自発する子に育てること。子の今の育ちを褒め称えること。すべてを肯定すること。子の内発性を信じ切ること。日本刀鍛造のように、誰かに鍛えられるのではなく、自分で自分をどのように鍛造していくかの「自発できる子」に育てていくことが、特に幼稚園小学校で肝要です。親も教師も、子の前に立ってはならない。(立ちはだからず、黙って見る)親という字は、立ち木の横で見ると書きます。(上記、ある真摯な親御さんからのメールへの返信を兼ねさせていただきました)