坂の上の雲をみあげて

2011/11/17(木)21:27

秋山真之伝記(島村と秋山)

秋山真之伝記(156)

 日露戦争の前半戦では、  連合艦隊先任参謀秋山真之少佐の上官は、島村速雄参謀長(大佐)でした。  海軍の場合、要塞が高速で移動しているようなものですから、  瞬時の判断が必要で、参謀が迷っていたなら、その間に沈没してしまうかもしれません。  したがって、戦闘中は、司令長官への助言も瞬時に行う必要があり、  もしも幕僚間で意見の相違がある場合は、参謀長に従わなくてはなりません。  しかし、真之は自説を曲げないというのか、どうもそのようなことは気にもとめなかったようです。  明治37年3月10日早朝、連合艦隊旗艦「三笠」は、  旅順口内に潜んでいるロシア太平洋艦隊を間接射撃(敵が直接見えない状態で攻撃する射撃法)するために、出動しました。  その時、駆逐艦「暁(アカツキ)」が三笠に接近してきました。  暁は、前日から出動していて、敵駆逐艦隊と交戦し、死傷者を出したのですが、  駆逐艦には軍医は乗艦していませんので、三笠に助けを求めたのです。  この時、戦艦「三笠」の前艦橋には伊地知艦長と真之が、  後艦橋には東郷司令長官と島村が位置していました。  島村は、暁の負傷者を収容するよう、飯田久恒(ヒサツネ)参謀に命じ、  飯田は、それを伝えに前艦橋に駆けつけたのですが、  真之は、今が間接射撃を行う好機であるといって、艦を停止させようとしません。  使いっ走りにされた飯田はたまったものでは無かったでしょうが、  前艦橋と後艦橋の間を30回以上往復したそうです。  この間、東郷は黙して語らなかったと言いますから、  よほどがまん強い性格であったのでしょう。  この場合の島村と真之の確執は、戦闘前に起こったことですから、  大勢に影響は無かったのでしょうが、もしも戦闘中に生じたとしたら、  大変な事になってしまいます。  その大変な事が、明治37年8月10日の黄海海戦に発生していて、  真之の言う「3分間の遅れ」も、実は2人の確執が原因だったのです。

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