我生は糸瓜のつるのゆきどころ
昭和の初めごろ、大阪のある俳人が、 『子規は俳句を初め三津浜の四時園其戎(キジュウ、1812年-1889年)に学んだと聞くから明治俳句の発祥地は三津浜であるというべし』 と、書いているのを見かけた柳原極堂(キョクドウ、1867年-1957年)が、 「子規は其戎に俳句を学んではいない」との手紙を書いたところ、 数日して大阪から返信がありました。 その返信について極堂は、1931年に松山で行われた「子規を語る」という座談会(大阪毎日新聞愛媛版に掲載)で、次のように語っています。 『勝田宰洲翁の近著「ところてん」の中に子規は三津浜の其戎に俳句を学んだと書いてある、 またその紹介は宰洲翁がしたとも書いてあるから三津がやはり明治の俳句の発祥地に疑いないと鬼の首をとったように喜び私に逆襲してきた』 宰洲翁とは勝田主計(ショウダカズエ、1869年-1948年)のことで、東大卒、大蔵省入省、大蔵次官を経て退官、大蔵大臣、文部大臣を歴任した明治の松山人の名士中の名士といえる人物でした。 普通なら、宰洲がそのように書いているのならその通りだろうと引き下がるのでしょうが、 子規が「性(格)大山の如く、賢にして愚なり、愚にして賢なり」と評した極堂のことですから、引き下がるはずもありません。 大阪の俳人宛てに「私は子規が其戎翁に俳句を学んだなどという事実は断じてないと思っている」という返信を書き、ついでに「宰洲先生のところへもいってやり再考を煩わすことにしたい」とも書いています。 しかし、子規は、随筆「筆まかせ」に「其戎に俳句を学んだ」と書いているのです。 ただ、子規の初期の随筆である「筆まかせ」は「墨汁一滴」、「病牀六尺」、「仰臥漫録」などと比べるとどうしても評価が低くなり、1924年に配本開始されたアルス版の子規全集には、ほとんど収録されていませんでした。 1929年に配本開始された改造社版子規全集には「筆まかせ」の全容が収録されたのですが、この座談会当時、極堂はこれを読んでいなかったのです。 このあたりの経緯は、極堂の「友人子規」(1943年)に正直に記されています。 生涯を子規の顕彰につくし、辞世を 『我生は糸瓜のつるのゆきどころ』 とよんで、自身の生涯を17文字に集約してしまった極堂ゆえの勇み足だったと言えるかもしれません。にほんブログ村