秋山真之伝記(大往生)
秋山真之の臨終の地は、小田原にある友人「山下亀三郎」の別荘でした。 大正7年2月4日、 真之の腹は異様に膨れ上がり、 黒い血を幾度となく吐き、いよいよ危篤に陥ったのです。 午前3時ごろ、邸内に待機していた見舞客を病室に招きいれて、最後の挨拶を行いました。 『皆さん、いろいろお世話になりました。』 『これから独りでいきますから』 この後、真之の遺言が始まりました。 苦しそうに息を継ぎながら、それでも激しい口調であったそうです。 『今日の状態のままに推移したならば、わが国の前途は実に深憂すべき事態に陥るであろう。 総ての点において行き詰まりを生じる恐るべき国難に遭遇せねばならないであろう。 俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救うか』 遺言が終り、しばらくして、 『辞世というほどのものではないが』 と、いって、 『不生不滅明けて烏の三羽かな』 最後の「かな」は、聞き取れなかったようですが、恐らく「かな」であったろうとのことです。 そして、13歳になった長男には「宗教をしろ」と、 11歳の三男には「軍人になれ」と、はっきり言い切ったのです。 しかし、12歳の次男は、養子に出していたので、わざと遺言は与えなかったそうです。 そして、親友の山下との会話が真之の最後の言葉となったようです。 『今まで君に何もたのんだことはなかったなあ』 『うん何も頼まれたことはなかった』 『○○を頼む』 『よし、子供のことは引き受けた』 この、○○というのは、多分、二女の名前であったのでしょう。 いくら死を覚悟しているとはいえ、3歳になったばかりの末っ子の娘のことを想うと、 後ろ髪をひかれたのではないでしょうか。 相模湾に太陽がようやく登ろうとして、水平線上がわずかに紅く染まった時、 真之は、逝ってしまいました。 夜明け烏がどこかで、カァカァと鳴いているのを聞いた真之は、「やっとお迎えが来てくれたなあ」と思ったのかもしれません。 迎えにきた烏は、いったい誰だったのか。 「正岡子規」だったのかもしれませんし、「広瀬武夫」だったのかもしれません。 しかし、迎えに来たのは、やはり父烏と母烏だったのではないかという気がします。 両親に導かれた子烏は、夜明け前の空に飛び去ってしまいました。 『不生不滅明けて烏の三羽かな』