伊予松山藩の名をたかからしめよ
昨日紹介した、松山の道後公園にたつ内藤鳴雪の寿碑を裏側から見た写真です。「鳴雪自叙伝」を読んだ後に、最も心に残ったのは、伊予松山藩14代藩主松平定昭(さだあき)のことでした。 定昭は、1845年生まれですから、内藤鳴雪よりも2歳年上でした。 1867年(慶応3年)、23歳のとき、義父から家督を譲られ、伊予松山藩の藩主として、老中上席に列することになります。 しかし、徳川劣勢の状況の中での老中上席は、松山藩にとって禍(わざわい)になるとの家臣たちの申し立てに抗しきれず、辞表を提出してしまいます。 翌年、定昭は、15代将軍慶喜から強烈なしっぺ返しを受けることになります。 鳥羽・伏見の戦いにおいて、慶喜は定昭に何の相談もしないで、江戸へ逃げ帰ったのです。 大阪城に置いてきぼりをくわされた定昭は、さぞかし無念だったでしょう。 その無念を晴らす機会が直ぐにやってきます。 松山藩は朝敵となり、土州が攻めてきたのです。 この時、定昭は、徳川親藩の藩主として徳川家の恩顧に報いるためにも、松山城を枕に討死をする覚悟でした。 もし、そのようにしていたら、後世「松山戦争」として、定昭は名を残したことでしょう。 しかし、土州の山内容堂の懐柔策を受け入れ、降伏してしまうのです。 定昭は、身分をはく奪され、謹慎を命じられるのですが、1871年(明治4年)、再び義父から家督を譲られ、松山県の知藩事として返り咲くことができたのです。 定昭は、名誉挽回、身を粉にして働いたのでしょうが、半年後、廃藩置県により、知藩事を免ぜられてしまいます。 そして、1872年(明治4年)、大病を患い、こころざしなかばにして28歳の若さで、亡くなってしまうのです。 久松家を相続した定謨(さだこと)は、伯爵でありながら軍人となり、私財を投じて常盤会を設立し、旧松山藩士の育成に努めたのです。 「伊予松山藩の名をたかからしめよ」 その言葉には、江戸封建時代の、ぼうれいのような、のどかな、たわごとのような響きがあります。 しかし、忠義に生きようとしながら、時代にほんろうされ続けて、それを達しえなかった、久松定昭の武士としての無念を思うと、なにか悲痛な叫びのようにも聞こえてくるのです。 定昭の無念は、旧松山藩士の無念でもあり、その無念のエネルギーが、明治という国家をつくる一つのパーツになったのではないか、そんなことを思ったりしました。 『秋山真之が中学を中退して上京したのは、このとし(明治16年)の秋である。 三津浜から出港するとき、桟橋までみおくりにきてくれたひとたちのなかで、旧藩時代、秋山家の上司だった徒士(かち)組の組頭がすすみ出て、 「伊予松山藩の名をたかからしめよ」 と、この少年をはげました。 見送るひとびとが大まじめでみなうなずいたところをみると、そういう時代であった。(小説「坂の上の雲」より)』にほんブログ村