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大阪で水彩画一筋

大阪で水彩画一筋

A-Wyeth雑感05丘の上の少年03

Andrew-Wyeth雑感05

丘の上の少年03

 学校へ行かず家の周辺の自然をさまよう毎日が何年も続くと
いうのは現代の日本では考えられないことです。少年期のアンドリュー
は水彩画を父より習います。父の絵はイラストといっても30号から
50号はある油絵でこれも現在のイラストとは異質のものです。

 スケッチに適した媒体は鉛筆と水彩です。アンドリューの描いた
紙の大きさはおおよそ横50cm、縦40cmほどです。これは少年
が脇に抱えて持ち運べる最大の大きさです。習作を何枚も描き家の
床にいつもほったらかしにしていたそうです。

 スケッチは30分ほどで終わることもあったと思います。後に
覚えるテンペラ技法が膨大な時間を必要とするのと対照的です。
 少年期の水彩は驚くほど原色が多く使われています。父の教えは
「細部を描くな、物の本質をとらえるため新鮮な印象を大切に。」
そんな感じではないでしょうか。大きな筆で勢いよく一気に描かれて
います。

 後に水彩は「野生的な表現」をとどめておく媒体と記しています。
現地での生々しい印象、瞬間での荒々しいタッチでのみ伝えられる
激しい内部の感情はテンペラや油絵ではとどめおくことが出来ません。
 すばやいドローイングと水彩の習作は印象のワイルドな面を保持し
やがてテンペラ画の大作に収束します。


 20歳でニューヨークのマクベス画廊で初めての水彩画の個展を
行います。昨日は即日完売し大成功に終わりました。しかし実際には
アンドリューの絵画の特徴は父の死後、より厳しくよりシリアスに風景を
眺め観察するようになってからだと思います。特徴的なことは大胆な
野生的なタッチで風景から受けた最初の印象を保持する努力を大切に
していることです。この制作態度は終生変わらなく続きます。

 父の絵はそのイラストという性格上自然からの直接の印象で描かれた
わけではなく多くの資料、コスチュームから描かれています。
 この「質」の違いは後に「父と子」の関係に微妙に影響します。
 この個展の後の絵画は急に原色が少なくなり色数は限られ、枯葉の色に
変化して描写も細密、正確に変化していきます。

 青年期には義理の兄よりテンペラ画を習います。油絵のネチネチした
感じが嫌いだったと述べています。エッグテンペラは顔料を卵の黄身で
溶いて使うらしいのですが私は見たこともありません。現在の日本の
画材メーカーは需要が少ないため生産を中止しています。

 画風は細密画に変化していきます。ペンシルバニア州とメイン州の
風景を描くのは相変わらずですが、テンペラ画は精緻を極め幾度も描く
西洋すずかけの枝の先端まで葉っぱの隅々まで細い筆で丁寧に描きます。
中景も遠景も手を抜かない描写は生真面目な制作態度とともに当時の
アメリカで流行していたのかも知れません。

 しかし20歳の頃から徐々に父はある種の「変化、応用」を要求します。
「そろそろ実際の風景を見て描くばかりでなく空想で描けるように
しなさい。」父は挿絵画家ですから劇的な場面をたくみに現実のように
描く術を持っています。イラストには絶対必要です。

 力関係ははっきりしています。アンドリューの唯一の師は父であり
絶対的なものです。反抗するとは思えませんが、絵画の「質」の違いは
少しずつハッキリしてきます。父は尊敬と畏怖の対象ですが時に永遠の
ライバルでもあります。

 1941年(24歳)にアンドリューが描いた「DIL HUEY FARM」という
テンペラによる細密風景画はそれまでの水彩画と違い完成度の高いもの
でアンドリューの志の高さを物語っています。少しずつ父の技量に接近
してきたことは父が一番よく知っていたと思います。

 アンドリューは多くの先人の画風を真似て(或は無意識に)描いてい
ます。初期の水彩画はウィンスロー・ホーマーの筆遣いに似ていますが
建物の描き方や配置はエドワード・ホッパーに似ています。特にアメリカ
郊外の横に広い風景の中の平凡な郷愁をさそう建物、という構図はこの時
から影響されていたと思います。都市とその中の孤独な現代人という
イメージはホッパーの得意とするところです。

 そして彼はトーマス・エーキンズという油彩画家を絶賛しています。
風景の中の人物の配置や水辺の風景にはエーキンズから影響をうけたと
思われる作品が多くあります。1969年にモデルのクリスチーヌが
亡くなってから若いモデルのヌードを描いていますが多分尊敬する
エーキンズの制作態度をも真似たのだと思います。


 しかし理想としたのはボッティチェルリ、デューラー、レンブラント
といわれています。特に1940年頃の平凡で身近な対象を細密に丹念に
描く手法はデューラーに学んだと思われます。

 父の要求する「空想で描く」手法はアンドリューの理想とは違うと思
います。しかしさからえるはずがありません。父はアンドリューにとって
いわゆる「神様の次」の人です、その父との軋轢はたとえあっても生涯
アンドリューは語らないと思います。やがてテンペラで何点か商業ベース
に乗るような挿絵を描くようになります。

 
続く



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