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大阪で水彩画一筋

A-Wyeth雑感06高村光雲

Andrew-Wyeth雑感06

高村光雲(1852~1934)

  新大陸アメリカが独自の文化を創り始めた頃、日本は長い鎖国が
 終わり西洋文明に触れることになります。大国中国は疲弊し西洋
 列強に侵食されボロボロになっています。明治政府は西洋を真似て
 国づくりをはじめ美術面でも官製アカデミーに力を入れます。

  1905年、横浜港から23歳の青年が彫刻勉強のため小さな
 船で海外を目指します。彫刻家高村光太郎(1883~1956)
 です。桟橋では遠く離れていく船をいつまでも見送る父の姿が
 ありました。父は彫刻家の高村光雲です。

  光雲は東京の下町の生まれで高村東雲という仏像彫刻士に弟子入り
 し努力して跡継ぎになります。当時の木彫工芸士は身分は高くなく
 貧乏だったそうです。日本各地に木工芸の伝統技術が残っていますが
 間違いなく日本の木工芸は世界一の水準にあったと思います。

  新政府の設立した官製アカデミーの象徴、東京美術学校(後の
 東京芸大)の最初の彫刻家の教授に高村光雲は抜擢されます。技量
 からして当然ですが写真では口ひげをたくわえ大きな勲章を胸に
 つけた誇らしい姿は日本彫刻界の頂点の地位を象徴しています。

  楠木正成像や西郷隆盛像を国からの注文で制作しますが、名声を
 一層高めたのはシカゴ万博(1893年)に出品した「老猿」という
 作品で受賞したことでしょう。鷲と戦い勝利した瞬間、疲れた表情で
 空を見上げるその彫刻は日本近代彫刻を代表する技量であることは
 確かです。シカゴ万博のときアンドリューワイエスの父N・C・ワイ
 エスは12歳です。勘ぐればこの作品を鑑賞していたかも?と想像
 出来ないこともありません。

  光雲には4人の子供がいました。長女は幼くして病死しています。
 気の毒なのは次女で16歳で病死しています。大変絵の才能があって
 将来を嘱望されていたそうです。この次女の死は父の光雲にとっては
 大変なショックであったと思われます。光太郎は長男ですがこの姉の
 死は記憶に残っていたそうです。生のはかなさを感じる年齢であったと
 思われます。父は昔かたぎの職人気質、真面目で一家の長として威厳を
 持って振る舞いすべてを取り仕切っています。才ある次女の死で一層
 長男に対して期待が大きくなったかも知れません。

  母は夫に従い文句を言わず子供ためにかいがいしく働く典型的な東京
 庶民の母です。家族の中で誰よりも早く起きて誰よりも遅くまで働く。
  誰にも愚痴や文句を一切言わないで家族の中で一番粗末なものを食べて 
 あらゆるものを始末して生活する。それでいて健康で、電話機のような
 新しい器具にも誰よりもすぐに詳しくなる。光太郎がいうところの「実に
 不思議な女性。」が母親であった。

  光雲が大金をはたいて長男を海外留学に行かせたのはやはり芸大の教授
 という自身の跡継ぎにするためだと思います。また当時彫刻という分野で
 食べていくにはこれしか方法がないと思っていたかも知れません。
  各分野の優等生たちは家や地域の期待を浴びてヨーロッパを目指します。
 そして実際西洋帰りの秀才たちが明治の日本政財界や芸術をリードする
 中心になります。文学界では森鴎外、夏目漱石がこの時期に留学してい
 ます。

  光雲は時代の動きを察し才能ある息子の将来を考えた上で洋行させた
 ことは当然のことだったと思います。しかし西洋彫刻の流れを知りません
 でした。絵画と同じように近代彫刻はすでに物語を造形する時代は終わり、
 純粋に造形本来の美を追求する時代になっていました。この質の違いが
 後の父と子の対立の元になります。光太郎はアメリカからフランスに
 渡り、友人の荻原守衛とともにロダンの弟子となります。

 当時の心境を光太郎は詩で語っています。

         彫刻一途

  日本膨張悲劇の最初の飴
  日露戦争に私は疎かった。
  ただ旅順口の悲惨な話と、
  日本海海戦の号外と、
  小村大使 対 ウィッテ伯の好対照と、
  そのくらいが頭に残った。

  私は20歳をこえて研究科に居り、
  夜となく昼となく心をつくして
  彫刻修行に夢中であった。
  まったく世間を知らぬ壷中の天地に、
  ただ彫刻の真がつかみたかった。

  父も学校の先生も職人にしか見えなかった。
  職人以上のものが知りたかった。
  まっくらな まわりの中で手さぐりに
  世界の彫刻をさがして歩いた。

  いつのことだか忘れたが
  私と話すつもりで来た啄木も、
  彫刻一途のお坊ちゃまの世間見ずに
  すっかりあきらめて帰っていった。
  日露戦争の勝敗よりも
  ロダンという人の事が知りたかった。

  アンドリューワイエスも20歳前後の頃には絵画修行の真っ最中に
 ありました。個展は成功し華々しく世にデビューしました。
  彼の心にも高村光太郎と同じ芸術観が芽生えていたのでしょうか?
  アンドリューワイエスが理想とするのはレンブラントやディーラー、 
 ボッティチェルリの絵画です。あの魂を揺さぶる、自分の生涯をかけて
 チャレンジしてみたい芸術世界が目の前にあります。一番問題となるのは
 父が手がけている絵画やその周囲のイラストの世界は「高級な漫画」の
 世界に見えたのでは?という疑問です。高村光太郎のように自作の詩で
 真実を述べることはありません。もしそう思っていても終生それは口に
 出さないと思います。

  日本は日露戦争で勝利したと浮かれ軍国主義が沸き起こっていました。
 又一方アメリカはヨーロッパの戦争を傍目に繁栄を極めます。幼い時の
 アンドリューワイエスは父のアトリエからヨーロッパの戦争の記事や
 文書を読み心弾ませる「軍事おたく」になっていた時代です。

続く




  


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