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大阪で水彩画一筋

A-Wyeth雑感07光雲と光太郎

Andrew-Wyeth雑感07

高村光太郎

   絵画では黒田清輝(1884年フランス留学)、原田直次郎
 (1884年ドイツ留学)、藤島武二(1905年フランス留学)、
 安井曽太郎、梅原龍三郎(1908年フランス留学)らが主として
 アカデミーで学び帰京しています。そしてそろって東京芸大の教授となり
 帝室技芸員に入り文化勲章をもらっています。これは当時芸術家にとって
 最も名誉となる社会的な成功を意味します。

  この明治のエリートたちに比べ洋行せず野にいた若い美術家たちは
 過酷な現実がまっています。金持ちの息子でなければ新しい美術に
 挑戦するのは命がけの博打のようなところがあります。

  画家関根正二(20歳)、村山かい多(23歳)、青木繁(28歳)
 中村つね(37歳)、彫刻家萩原守衛(31歳)これは留学した年齢では
 なく病没した年齢です。官製アカデミーに入って文化勲章をもらう、
 いわゆる勝ち組に比べ日本の社会の貧困ゆえに在野組はたちまち絵の具にも
 窮する現実が待っています。

  もちろんこれは一握りの例で実際には美術の道を生活ゆえにあきらめる
 というのが大部分だったと思います。またアメリカと比べ商業美術に
 洋画が利用されるということもほとんどないため一層生活は過酷です。
  そもそも彫刻は絵画よりさらに広い空間が必要でありその材料、道具の
 調達は物理的に恵まれていなければ無理です。さらに注文がなければ販売
 はままならず個人では活動はほぼ絶望的です。もし学校卒業後も制作を
 続けようと思えば裕福な人物から芸術上の理解と、さらにかなりの金銭
 援助がなければ不可能な分野です。

  高村光太郎はパリで西洋文化の芳香を嗅いでしまいました。木と紙で
 出来た東京下町の家々、裸電球の下で、擦り切れた畳の上で、膝寄せ合って
 味噌汁と漬物で食事する日本社会に比べ、当時パリの隆盛は別世界の
 ものでした。女性は自由で活発で、きらびやかで美しく、いろんな民族が
 我を主張し、ありったけの思いを発表します。

  ある晩光太郎はパリで流行の店で女性と楽しく時を過ごしていました。
 当時のパリはヨーロッパの文化の中心です。すっかりその気分に酔いしれ
 東洋の2等国、日本のことを忘れていました。ある時その光太郎のもとに
 日本の父母から手紙が届きます。「体を大切に勉強せられよ。」という
 内容の手紙です。その時光太郎は愕然とします。一変に日本の現実に引き
 戻されてしまったのです。あの狭いすすけた部屋で貧しい父母が遠い異国
 での我が子の成長を楽しみに賢明に働いている姿を思い浮かべ愕然とした
 のです。

  現在の私も含めて団塊の世代が大学生の時に都会に出て流行の遊びや
 交流におぼれていたとき、ふと実家の両親を思い出したときにその落差に
 漠然とすることがあると思います。日本社会では親が子供のために働き
 無償で学費を送金する姿は典型的なものです。それが日本の高度成長を
 支えてきた家庭のあり方だったと思います。やがて子供は就職し核家族
 を築き年老いた両親にささやかな感謝を送る、というのはかなりのパター
 ンだと思います。しかし才能のある高村光太郎は心ならずもこ親孝行の
 道をたどりませんでした。それどころか父に反抗し退廃的な生活におぼれ
 ます。一体なぜそんなことになったのでしょう。

  師匠のロダンの彫刻は過去のどの時代にも属さない新しい造形でした。
 モデルに固有名詞や物語はなく、細部は省略し、荒々しいボリュームと
 柔らかい動き自体が主題となります。光太郎と荻原守衛は感動しその
 息吹を日本に持ち帰ろうと考えます。しかし日本の貧しい現実にたちまち
 直面することになります。

  まず光太郎がアレルギーを覚えたのは既存の彫刻界の閉鎖性と
 ヒエラルキーでした。「根付の国」という自由な詩でいびつでこじん
 まりとおさまる日本社会を痛罵しています。

   根付の国

  頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、
  名人三五郎の彫った根付の様な顔をして
  魂をぬかれた様にぽかんとして
  自分を知らない、こせこせした
  命のやすい 見栄坊な
  小さく固まって、納まり返った
  猿の様な、狐の様な、ももんがの様な、ぼはぜの様な
  メダカの様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

  この詩は光太郎が帰国して日本人に感じた偽らざる心情であったと
 思います。とても深刻で神経質にならざるを得なかった思われます。
  さらにショッキングであったのは帰国した際に父から「肖像彫刻の会社を
 つくって活動したらどうか。」と言われたことです。自分は何のために
 ヨーロッパに学びに行ったのか?そんな疑問が沸き起こってきます。
  要求されていたのは固有名詞のある肖像彫刻であり物語のある彫刻で
 した。さらに実力がないのに権威だけでおさまっている教授たちと、
 とても溶け込める環境にはなかったのです。

  さらに父と対立します。父の芸術とロダンに学んだ光太郎の芸術は質が
 違います。彫刻界になじまない光太郎の態度は父には我儘に見えたかも
 知れません。大変な期待を持って送り出した息子なのに、留学させたのを
 後悔したかもしれません。光太郎が大学教授の道を断り酒におぼれるよう
 になって父と子の対立はどうしようもなくなり光太郎は家をでます。

  当時の光太郎の心境は?なぜ利発な子が反抗するのか?光太郎の
 詩が語っています。

   反逆  
         親不孝
   狭苦しい檻のように神戸が見えた。
   フジヤマは美しかったが小さかった。
   むやみに喜ぶ父と母とを前にして
   私は心であやまった。
   
   あれほど親思いといわれた奴の頭の中に
   今何があるのかをごぞんじない。
   私が親不孝になることは
   人間の名において已むを得ない。

   私は一個の人間として生きようとする。
   一切が人間をゆるさぬこの国では、
   それは反逆に外ならない。
   
   父や母の楽しく待った家庭の夢は
   いちばんさきに破れるだろう。
   どんなことになってゆくか、
   私にもわからない。

   良風美俗にはずれるだけは確かである。
   - あんな顔して寝てるよ。- 
   母は私の枕もとで小さくささやく。
   こういう恩愛を私はこれからどうしよう。

        デカダン(退廃)

   彫刻油絵、詩歌、文章、
   やればやるほど臑をかじる。
   銅像運動もおことわり。
   学校教師もおことわり。
   縁談見合いもおことわり。
   それじゃどうすりゃいいのさ。
   あの子にも困ったものだと、
   親類中でさわいでいますよ、

   鎧橋の「鴻の巣」でリキュールをなめながら
   私はどこ吹く風かというように酔っている。
   酔っているように飲んでいる。
   まったく行くべきところが無い。
   デカダンと言って興がるが
   こんな痛い良心の眼ざめをかって知らない。

   遅まきの青春がやってきて
   私はますます深みに落ちる。
   意識しながらずり落ちる。
   カトリックに縁があったら
   きっとクルスにすがっていたろう。
   クルスの代わりにこのやくざ者の眼の前に
   奇跡のように現れたのが智恵子であった。

      父の顔(高村光太郎の詩)

   父の顔を粘土にてつくれば
   かわたれ時の窓の下に
   父の顔の悲しくさびしや 

  光太郎は自分の親不孝を十分に知っていながら父に反抗せざるを
 えなかった。時代のはざ間で生きたそれぞれを生きた父子が反目せざるを
 えないどうしようもない目に見えない何かがあったとしか思えない。
  父や世間から見たら堕落した光太郎はどうしようもない出来損ないの
 息子だったかも知れない。しかし父の予想ははずれ、後世に変革の時代に
 生きた芸術家として光太郎のほうが取り上げられる機会が多いのは必然
 でもあった。

  同じようにアンドリューワイエスの父の期待もはずれます。アンドリュー
 ワイエスは光太郎と同じ後ろめたいどうしようもない感情に突き動かされ
 ます。しかし光太郎と違いラッキーな点が幾つかあります。いわゆる
 「行くべきところ」があったのです。それは妻ベッツィーの存在と遠く
 離れたメイン州クッシングにある別荘の存在でした。
 

続く


  


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