お世話になった大先輩のこと 腰山さん
その人の名前は、腰山一生(こしやま いっせい)と言います。今の若い人たちは知らない方も多いと思いますが、40代以上の業界関係者、放送作家で、この名前を知らない人は、あまりいないのではないでしょうか。ジャンルを問わず、凄まじい数のテレビ・ラジオ番組を手掛けられた方です。伝説の番組『テレビ探偵団』も、腰山さんが作りました。2014年までTBSで放送していた『はままるマーケット』も立ち上げました。僕が20年にわたってお世話になった古舘プロジェクトは、放送作家集団です。96年、僕が若手作家として事務所に入った時、腰山さんはその長でした。最初の印象は、とにかく口うるさい人。若手作家の仕事の一つに、朝、事務所で腰山さんの電話を受け、番組視聴率をお伝えするというのがありました。矢継ぎ早に「この番組は?」「この番組は?」と飛んでくる質問に対して素早く的確に答えないと、すぐにお叱りの声が受話器の向こうから飛んできます。テレビ局を渡り歩くように1日を過ごしていた、腰山さんへのお使いも若手作家の仕事です。僕は20歳まで千葉県外房のド田舎に住んでいたので東京の地理(特に電車、地下鉄)に明るくなく、度々遅れては、よくお叱りを受けていました。繰り返します。ホントに口うるさい人でした。そんな腰山さんが立ち上げたTBSラジオの番組がありました。ラグビー界不世出の天才・松尾雄治さんのお昼のワイド番組『松尾雄治のピテカンワイド』です。※ピテカンはピテカントロプスから取っています。 松尾さんの風貌から、お察し頂ければ幸いです。この番組に僕も入れて頂きました。これは、沢山の方が口をそろえておっしゃることですが、腰山さんは、『人と人を出会わせる天才』でした。この番組がなければ、僕は松尾さんと出会うことは、おそらくなかったでしょう。番組立ち上げ当初、番組は少しギクシャクしていました。メインの松尾さんは、ご存じの通り、いったん喋り出すと止まらない、下ネタ大好きなエロおやじ。対して、アシスタントの清原さんはどうにも下ネタが苦手…。そんな清原さんに声をかけたのが腰山さんでした。どんな言葉をかけたのか、僕には知る由もありませんが、うまく清原さんのやる気を引き出し、2人のバランスを取っていました。この辺りは、まさに“腰山マジック”という他ありません。聴取率も少しずつ上がっていきました。そんな矢先、腰山さんが体調を崩しました。どんなに大御所になろうと、テレビやラジオの現場が大好きだった腰山さんが休みがちになり、ついに入院してしまいました。そんな中、プロ野球、巨人の取材で松尾さんが宮崎に行くことになりました。腰山さんが元気であれば、松尾さんと帯同するのは、もちろん腰山さんです。そんな大役を、若手作家の僕が任されることになりました。出発日前日の夜、僕の携帯が鳴りました。腰山さんでした。うわーまた何か色々言われるのかな…、叱られるのかな…、そう思っていると。腰山さんは「頼んだぞ」とだけ言いました。やけに声に元気がなかったなあ…当時の僕は、腰山さんの病状の深刻さを分かっておらず、そんな風にのんきに思っていたのでした。結局、腰山さんが番組に帰ってくることはありませんでした。とにかく人付き合いのいい人で、スタッフとの飲み会にも最後までとことん付き合い、明け方に帰宅すると、録画しておいた担当番組を見ながらソファで寝てしまう。そんな生活が、腰山さんの体を少しずつ蝕んでいったのではないかと思います。2001年1月、腰山さんはこの世を去りました。21世紀までは何としても生きてやる、そんな思いもあったのでしょう。その日も、ピテカンワイドのオンエアはありました。番組のエンディング、松尾さんは殊更明るく「あばよーー!」と言い、清原さんは目を真っ赤にして泣いていました。そこに至り、ようやくあの日の電話の凄まじさが分かった気がしました。その時、すでに自分の体のことは分かっていたのだと思います。治療だけに専念すればいいのに。番組が気になって、松尾さんが気になって、病床から僕に電話をかけてくれたのです。『命をかけて』とは軽々しく使う言葉ではありませんが、この時の腰山さんにこそ、ふさわしいと、つくづく思いました。怒ると怖い人でしたが、周りを幸せにする笑顔の持ち主でした。お墓参りに行ったという、元後輩のSNSの書き込みを見て、ふと書いてみたくなりました。