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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.03.05
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カテゴリ:文化論
~アイヌとの交流~

     北海道開拓記念館

 いわゆる「アイヌ新法」が制定されてから、言葉などに一種の「制約」がかけられたのではないだろうか。実際に体験はしてないが私にはなぜかそんな風に思えて仕方ないのだ。例えば「開拓」。私たちの年代で北海道と言えばすぐに思い出すのが「開拓」だし、「屯田兵」。それらは明治新政府が目指した「富国強兵」を支えるものでもあった。だが「開拓記念館」はどうやら「北海道博物館」になったようだ。

 アイヌに数の概念が乏しいことは以前に述べた。例えば江戸時代に和人がアイヌと取引する時の数え方だが、先ず「はじめ」から始まり1,2,3,と数えて真ん中に「真ん中」が入り、10まで数えると最後に「おわり」が入った由。つまり10は10ではなく13になるが、それでもアイヌは了承したと聞く。明治新政府は、アイヌが居住した便利な土地を奪って三菱や三井に払い下げ、アイヌは僻地に追い込まれたと言う。

       

 さて、アイヌに混じって立っている外国人は、イギリス人のジョン・バチェラー。彼は英国国教(プロテスタント)の牧師で、夫人と共に早期に北海道に渡りアイヌにキリスト教を布教した。風習はもとより、言葉も日本語とは大きく異なるために彼の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。

     

 そのために彼が苦労して作ったのが「アイヌ語、日本語、英語の対訳辞書」(左)だった。彼はアイヌのための教育施設まで作った。それが幌内に建てた「愛隣学校」だ。そんな努力がアイヌにも認められ中にはキリスト教へ改宗する者も出た。アイヌにとって最初の異人は日本人だが、日本人以外の外国人がジョン・バチェラーで、彼がアイヌ研究に果たした役割は極めて大きなものがある。

       

 日本人のアイヌ語研究の第一人者が金田一京助(左)だろう。彼は東大でアイヌ語研究を志し何度も北海道を訪れたが、十分に聞き取ることは出来なかった。そこでアイヌの少女知里幸恵を東京に招いて、彼女から正確なアイヌ語を学んだ。彼女は幼少時から幾編ものユーカラを聴いて育ち、いち早く学校で日本語の教育も受けたバイリンガルで、金田一にとってはまたとない良い助手となったのだ。

 こうして金田一の研究は一挙に進んだが、北海道から出て来た幸恵にとって大都会での慣れない暮らしによるストレスは大変なものがあったのだろう。語学の天才はわずか18歳と言う短い生涯を終えたのだ。この後、金田一は幸恵の弟真志保を東大に入学させてアイヌ語の研究を続けるが、真志保は東大卒業後北海道へ帰還し、後に北海道大学の教授となる。その後は彼らの叔母である金成マツが暗唱していたユーカラを学ぶ。

  

 アイヌ初の国会議員となった萱野茂の生涯は、アイヌ文化の振興に捧げたと言っても過言ではないだろう。自らもアイヌ博物館を自宅敷地内に建て、大阪の国立民族学博物館の建設に寄与し、アイヌ新法制定の原動力となり、金成マツがアルファベットで書き残した膨大なユーカラを日本語に翻訳した。また自らもアイヌに伝わる昔話を何十冊もの著書にまとめた。

            

 それらの研究や長年のアイヌ文化振興活動に対して、総合研究大学院大学から博士号が綬与された。私は国立民族学博物館勤務当時、同氏が館内にあるチセ(アイヌの小屋」で執り行うカムイノミ(神行事)を身近で体験し、夫妻が持参したアイヌ料理に舌鼓を打ったことがあった。また北海道平取町にある自宅と私立博物館を訪問して直接お話を伺ったこともあった。それはアイヌ語の地名の特徴に関するもので、今となってはとても貴重な体験だったと思っている。<続く>






最終更新日  2021.03.05 00:00:09
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2021.03.04
カテゴリ:文化論
~写真で見る蝦夷地~

  
         

 北前船と言うのが江戸時代から明治時代まで日本の近海を走っていた。最初は蝦夷地(北海道)から日本海、瀬戸内海を通って大坂までの西廻り船。だが伊達政宗が石巻から江戸までの東回り航路を江戸初期に開くと、主に東北諸藩の米が江戸に船で運ばれた。西廻りで大坂に運ばれた北海道の産品は、昆布、新巻鮭、身欠きニシン、鷹の羽、獣の皮などだった。

 また大坂から江戸までの南海航路では、酒や塩、ミカンなどが運ばれた。このようにして各地の産物が大坂や江戸に運ばれるとともに、西国の文化や芸能が北陸や東北に伝えられた。京都のニシンソバは小浜に陸揚げされた身欠きニシンを上手に加工したものだし、明治期以降北海道の昆布は大阪から関西汽船で遠く沖縄まで運ばれた。「くーぶいりちー」などの昆布料理が今も沖縄で作られるのは、その名残だ。

  


      
 幕末期になると、西欧列強の蒸気船が日本近海に頻繁に出没するようになる。わが国の開国と通商を求めてのことだが、ロシアは不凍港を求めての南下政策を採っていたし、アメリカは織機を動かすための機械油の原料である鯨油を確保する捕鯨のための燃料や飲み水を求めていた。一時は小笠原諸島を占拠していたほどだ。このような状況下で幕府は蝦夷地の測量を進め、領土の確定と保全を進めた。

 伊能忠敬らが日本全土を徒歩で測量して正確な地図を作ったことは有名だし、間宮林蔵が当時は島か大陸の岬か不明だった樺太を探検して、島である証の間宮海峡を発見した。それらの重要な機密である地図を持ち出そうとしたシーボルトを国外追放処分にしたり、海防を説く仙台藩の林子平の著書「海国兵談」を発禁処分とし、蟄居を命じたのも危機感の表れだったろう。

  

 幕府は伊勢国の探検家である松浦武四郎に命じて、蝦夷が島の細部に亘る調査をさせた。絵心のある松浦は、数次に渡って蝦夷が島を探検し、丹念に山河やアイヌ集落の名をメモし、アイヌの習俗をスケッチした。これがやがて明治新政府による北海道開拓へとつながって行く。蝦夷が島を「北海道」と名づけたのも彼だ。

 江戸幕府は各藩が勝手に外国と交渉するのを防ぐため、船の舵(かじ)を弱い物に変えた。このため難破する船が増えた。アリューシャン列島まで流された伊勢国の船頭大黒屋光太夫ら。アメリカの捕鯨船に救助されてアメリカで英語での教育を受けた土佐のジョン万次郎らなどだ。漂流し期せずして外国の文化に接したことが、世界の趨勢を伝える結果となった。もちろん長崎でオランダから学んだことも大きい。

      五稜郭建造原図  

 幕府は蝦夷が島の警備を松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩の北辺4藩に命じ、各藩はそのために箱館周辺に代官所を置いた。それでも不足と見た幕府は西洋式の城郭である「五稜郭」を箱館郊外に建造した。だがやがて浦賀に侵入したアメリカのペリー艦隊など列強の声に押されて開国を決断し、函館などを開港する。そして鳥羽伏見の戦い後、歴史は一気に王政復古、明治新政府の誕生へと動いて行く。<続く>






最終更新日  2021.03.04 10:08:32
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2021.03.03
カテゴリ:文化論
~和人(シャモ)との交渉・交流史など~

  

 アイヌ新法の制定に先んじて、文部科学省は全国の研究機関等に対してアイヌ人骨の有無についての調査依頼をしたのだろうか。これによって3300体以上ものアイヌ人骨の存在が明らかになった。だが、肝心の大学などの研究機関がそれをどこから持って来たのかが分からない。中には古い時代に「発掘」したもあるが、アイヌに内緒で掘り出して落ち去ったものもあったのだと思う。

 市町村名は分かっても、詳しい場所は不明のケースが多かったのだろう。それで場所も遺族も不明の人骨の処置に困ったことで、ウポポイの敷地の一角に「慰霊施設」を設けてそこに納めることにしたのだろう。人骨を返却した研究機関が、遺族などの関係者へ謝罪することはなかったようだ。後で賠償などの問題になることを怖れたのだと思う。テレビで見た北大の副学長も、結局謝罪はしなかった。

  

 人骨を無断で持ち去られたのはアイヌだけではない。沖縄県今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓(左上)から京都大学などが昭和初期以降に持ち出していることが分かった。ここは琉球王朝成立前には、今帰仁城を根拠とする北山王朝関係者の風葬募と言われている。それが正しければ800年前から続く墓地で、人類学的にも貴重な資料であることは明白。だからと言って無断での持ち去りが許されるものではない。アイヌも琉球も結果的には「征服」された民族であるがゆえの所業と言うしかない。

   

 ウポポイの展示に関する基本方針は「過去の差別などの暗い部分をピンポイントで取り上げないで欲しい」との要請があった由。すると要請したのは政府だろうか。展示物の中にはホカイ(左上)やマキリ(右上)があるようだ。ホカイは漆を塗った容器だが、アイヌには漆を加工する技術はない。これは山伏などが移動する際に用いるが、江戸時代以降に和人との交流・交渉の中で入手したもの。マキリは小刀だが、アイヌには製鉄の技術はなく、これも和人との交流の中で入手したものを鞘(さや)や柄(え)にアイヌ独特の文様を刻んだものと思われる。和人との接触以前は、鉄は大陸経由で入手したのだろう。

   
    <縄文土器>        <擦文土器>         <内耳土器>

 縄文土器は沖縄県の宮古島でも北海道でも出土している。つまり縄文人が竪穴住居で生活しており、彼らが日本列島の「先住民族」だったわけだ。ただし日本一古い人骨は沖縄県の石垣島空港の地下で発掘された約3万5千年前のもの。この人骨は数体で、日本全体に広がった訳ではない。北海道で縄文土器の後に現れるのが「擦文土器」で、これを作ったのはオホーツク文化の担い手とされるツングース系の民族。アイヌが北海道へ渡って来たのは13世紀の鎌倉時代と言われており、彼らが作った「内耳土器」は鉄鍋を模したものと言われる。取っ手を付ける穴もあるが、全体的にかなり粗野な印象を受ける。<続く>






最終更新日  2021.03.03 00:00:10
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2021.03.02
カテゴリ:文化論
~ウポポイの話など~

  

 ウポポイは昨年7月にオープンした7番目の国立博物館で、北海道の白老町にあるアイヌ博物館。「ウポポイ」は大勢で歌うと言う意味のアイヌ語。この博物館には「民族共生象徴空間」と言う、やけに抽象的で長たらしい別名が付けられ、それだけで何だかインチキ臭いものを感じてしまう。観覧した人の評判も今一で中には「ウポポイ」ではなく、「嘘ポイ」だと言う人も出る始末。ショック!

            

 そもそもこの博物館が出来たきっかけは、2007年9月の国連総会において採択された、「先住民族の権利に関する国連宣言」。これを受けて2014年6月に北海道白老町に「民族共生の象徴となる空間」を建設することが閣議で決定した。また2019年4月にはアイヌを先住民族として明確に位置付けた「アイヌ新法」た成立している。この旗振り役が当時の内閣官房長官で現総理の、菅さんだった。

  

 そのせいもあって、昨年の開会式には菅総理も列席している。それまでアイヌに関しては明治30年代に制定された「旧土人保護法」と言うのがあった。それは「保護」に名を借りた、土地の没収であり、漁業や狩猟の禁止であり、アイヌ固有の習慣。風習の禁止であり、日本語の使用義務と、日本風氏名への改名に伴う戸籍への編入であった。

 祈りの際に使用するイナウ  

 アイヌには自分の領土と言う概念はなかったし、数の概念もあいまいだった。和人が蝦夷が島(北海道)に進出して交易が始まると、和人に簡単に数を誤魔化されたと言う。また明治新政府が北海道と名づけて本格的に開拓を始めると、居住や農地としての適地は和人に奪われ、アイヌは奥地へと追いやられたのが実態だ。政府はその事実をウポポイでは明確に示さないよう、画策したのだろう。そのことがアイヌとこの博物館の立ち位置が不明確になった原因と私は思うのだが。<続く>






最終更新日  2021.03.02 09:34:22
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2021.03.01
カテゴリ:文化論
~アイヌ・崇高な民族~

  

 前回アイヌの人骨の話を書いてから、1週間ほど経った。体調が急に思わしくなくなって、そのまま放置していたが気になってその続きを書こうとしている。アイヌとは「人間」と言う意味なので、あえてアイヌ民族とかアイヌ族とかせずに、ここではそのままアイヌと表記することにしたい。アイヌが日本民族と異なる文化を持つ民族であることは知っている。だが、日本の先住民族とすることはどうかと思っている。

                

 これはかつての北海道の文化圏を図示したもの。しかし「かつて」とはいつかと、私の知識では正しく規定は出来ない。道南の黒い地域には縄文人が居住し、東北の縄文人と全く同じ文化圏に属していた。ところがオホーツク海沿岸には、かつて「オホーツク文化圏」と言うのがあった。北見市付近のモヨロ貝塚はその典型だろうか。民族としてはアムール川河口のギリヤーク、ツングース族だろうとされるようだ。

 擦文(さつもん)文化と言うのがあったことは知ってるが、その担い手である民族名は知らない。アイヌが当時の北海道に来たのは12世紀ごろと言うのが私の認識だった。彼らも元々はアムール川河口周辺の民族だった由。そしてその集団が、千島、樺太、北海道と3つに分かれた。衣装のデザインがそれぞれで異なるようだ。アイヌは文字を持たず、土地は神から授かったものとの大らかな一面がある。

  

 アイヌの口承文学として有名なのがユーカラ(正確にはユカッラ)で、各種の神話や伝承を口伝えに伝えた。いずれも音楽と結びついた哀愁を帯びた旋律で語られる。私も20以上ものユーカラを動画で鑑賞したが、アイヌの宗教観や文化、芸術、生活が偲ばれる貴重な文学と言えよう。アイヌにとっては自然は全て神との関係の中にあり、また万物に神が宿ると考えるのがアイヌの宇宙観でもある。

  志海苔館跡(函館市)  

 北海道(蝦夷が島)への和人の進出の記録は、奈良時代の阿倍比羅夫が渡島(道南)の粛慎(しゅくしん・みしはせ)を討伐したとあるのが嚆矢だろう。粛慎もアムール川河口のツングース族と言われる。和人の定着は道南への秋田氏(後に蠣崎氏、松前氏)が最初で、後に南北朝の戦いで破れた武士が、蝦夷が島へ移住した。私はたまたま函館市の湯の川温泉に宿泊した翌朝、津軽海峡沿いの国道を東に走った。

 9km先で見つけたのが上の「志海苔館跡」。これは室町時代の山城で、木村氏の居城。同氏も南北朝の戦いで破れてこの地へ流れ着いた武士。付近からは宋の銅銭が3万9千枚以上発掘され、青磁、白磁、珠洲焼、古瀬戸などが出土した。曲輪、井戸、空堀などを有している。「道南十二館」の一つで、この地のアイヌの有力者であるシャクシャインの襲撃にあって落城した。

 偶然ではあったが、中世の山城と出会い、アイヌと和人の戦いの痕跡と言う貴重な歴史遺産を知ることが出来た。これもランニングが趣味だったお陰と言えようか。後日地図で確認したが、場所は函館空港の直ぐ南側だった。上の写真で背後に見えるのが津軽海峡。城主の木村氏は津軽海峡や日本海を通じて広範に貿易を行っていたのだろう。なお出土した銅貨の枚数は日本一。それだけ貿易が順調だったことを示している。<続く>






最終更新日  2021.03.01 07:29:40
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2021.02.28
カテゴリ:生活雑記
~日本をけん引する人の表情~

    前九年の役絵図

 「衣のたてはほころびにけり」。さて、この前の句は何だったかな。夢の中でしきりに考えていた私。確か「年を経し糸の乱れの苦しさに」だ。思い出しながらもまた「衣のたては」と夢の続きを見る。昨夜はそんなことの繰り返しだった。古代東北で起きた前九年の役。源頼義、義家親子が出羽の清原氏と結んで奥六郡の安倍氏を討った際の出来事。

 義家が「衣川の館」は我らが攻撃して滅んだぞと安倍氏にアピールしたら、「衣の経糸が綻びたのは、長い戦のせいで糸がほつれたせいだ」と歌で返したとされる逸話。まさか戦の最中に歌をやり取りしたとも思えないが、「衣」と「衣川」「経糸」と「館」の韻を踏んだ機知。綻びた(滅んだ)のは長年の戦のせいと答えた陸奥の蝦夷。後三年の役では逆に源氏と組んだ安倍氏が、出羽の清原氏を全滅に追い込んだ。

          冬銀河   

 翌朝はうっすらと雪が積もっていた。朝食後PCを立ち上げ、気がかりなさるブログを訪ねた。昨年12月初旬から更新されてないまま。初めて「俳句のページ」を訪ねると、句友が1月に肺炎で亡くなったと記していた。私は何度かコメントしたことがあるが、彼がコメントをくれたことはほとんどなかった。他の方には熱心にコメントされていたので、そんなことで私も訪ねなくなったのだ。

 レベルは違っても私も同じ俳句を学ぶ身。更新が途絶えて心配していた。さる同人に属し、ご自分もネットで俳句を指導しておられた。また浄土真宗の熱心な門徒でもあった。ブログを通じての薄い縁ではあったが、常日頃から「いつも陽気で朗らかに」と言っておられた彼は、最後まで謹厳実直な教育者だったと思う。今は亡き彼の冥福を祈って一句謹呈したい。合掌

           俳人はみ仏となり冬銀河

    

 緊急事態宣言の解除に伴う、菅総理の記者会見をニュースで観た。相変わらずの仏頂面で、観る人の気持ちが暗くなることこの上ない。自民党国会議員の不祥事、息子や中央官庁官僚の不祥事、内閣の報道官の接待疑惑、新型コロナ感染症や東京オリンピックの進展など難問続出の今、総理の胸中にも重苦しいものが鬱積しているのは間違いないだろう。それでも日本をけん引する立場である限りは、力強くあって欲しいものだ。

 ジャーナリストの辛坊治郎氏がこのたび業界からの引退を表明した。読売テレビを中心に40年以上も報道やメイン番組の先頭に立って来た同氏。私は「そんなこと言って委員会」などで見せる彼の変わらな人柄に、長年魅せられた一人だ。退職後は再びヨットでの太平洋横断に挑戦する予定とのこと、前回はクジラに衝突して救助されたが、今回は是非とも安全航行で成功して欲しいと願っている。ナイスガイだ。

  


 前日も大量の食料品を買い込んだが、この日は歩いて3つの店を訪問。A店では出汁醤油と、コーヒーとお茶。B店では焼酎。C店ではポン酢とキャベツとネギなど。リュックサックが満杯になり、重さでベルトが肩に食い込む。それも良いトレーニングだ。塩蔵ワカメは塩抜きして味噌汁の具などに、茎ワカメの佃煮はさすがは専門家だけあって、とてもマイルドで美味しかった。

      

 キッチンの蛍光灯が切れたが、何とか他の照明を灯して野菜炒めを作った。先日おかずが乏しくなった時は、コロッケ、アジフライ、納豆にピンチを救われた。比較的大量に揃った野菜と果物が冷蔵庫にあるのが心強い。「練り物」も各種あり、いざと言う時は「おでん」も行けそうだ。しかし2月も月末で、明後日からは3月。日差しが夕方まで明るいのが嬉しい。川沿いの花壇のクロッカスが咲いた。






最終更新日  2021.02.28 00:00:10
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2021.02.27
~とかくこの世は~

  

 栃木県で起きた山火事が、今日で6日目になる。その後どんどん焼失面積が増えて、火は住宅地近くまで迫り、かなりの家が避難の対象となった。山火事は隣の群馬県でも起きて、こちらもかなり大きな災害となり、消防署が必死で消火に当たっている。しかし、栃木県の出火の原因は若者の煙草の火の不始末のようだし、群馬はお年寄りがドラム缶で杉の葉を燃やしたこと。共に強風の中でのこと。油断と言うか、軽率と言うか、どちらもまさに「人災」と言うほかない。

        

 政治家や官僚の不祥事が続いている。全く情けない世の中になったものだ。贈収賄や接待など、とうてい良識ある人の行動とは思えない。政治家も官僚もあまりにも幼稚過ぎて、「劣化」としか思えない現象だ。元法務大臣の選挙違反などは、世の中を甘く見ていると言うか、常識知らずと言うか。恐らくは「天網恢恢、疎にして漏らさず」と言う言葉を知らないのだろうが、悪いことは出来ないものだ。

  

 島根県知事が、コロナ対策が万全でない現状での「聖火リレー」に島根県は協力出来ないとの発言には驚いた。全くユニークな発想だ。たちまちのうちに地元選出の国会議員から忠告があり、めでたく「手打ち」になったようだが、確かにコロナはまだ収束しておらず、ワクチン接種だって緒に就いたばかり。「東京オリンピック」だって本当に開催出来るかはまだ五里霧中なのだ。

   

 女性蔑視発言で組織委員会会長を辞職した森元総理には油断があったが、マスコミによる「言葉狩り」の面もあった。後任の橋本聖子五輪大臣は、野党の攻勢を受けて自民党を離党した。まあ以前も当時フィギュアスケートの高橋大輔選手にキスを強要して問題になったことがあった。そして山下JOC会長だが、所属している全柔連で起きたパワハラ事件の責任を取り、全柔連の会長を辞任する運びとなった。いずれもかつては一流のスポーツ選手だったが、やはりどこかに脇の甘さがあるのだろう。

                    

 近畿などの6府県が間もなく新型コロナウイルス感染症の「緊急事態宣言」対象地域から除外されるとの発表が菅総理からあった。東京都など首都圏の1都3県についてはそのままぞ継続される由。しかしいつものことながら総理の会見は精彩がなく、言葉の端切れも良くないのが気になる。たとえ問題になったとしても、河野ワクチン相くらいの勢いが欲しいと思うのは私だけだろうか。あれでは支持率の低下も当然だ。

  

 尖閣列島の領海内に中国艦船の不法侵入が続いている。海警法の改正で、中国海警の武器使用が今月から可能になった。その対抗手段として、わが国も現行法の範疇で武器の使用が可能との見解が出たそうだ。と言っても海上保安庁の武器は中国海警の武器よりはかなり能力が落ちる軽微な物。それでも断固たる意気込みを示すことで、中国もうかつなことは出来まい。それに国際世論の後押しもある。

 アメリカの次期CIA長官に就任予定のW.バーンズ元国防副長官が「中国は敵対国家」と正式に表明したようだ。バイデン爺さんは中国とズブズブの関係の上、認知機能の問題もあって頼りないけど、こうした明確な態度表明はありがたい。国際世論の中国への批判も「ウイグル人への抑圧」などで高まっており、場合によっては来年の「北京冬季五輪」ボイコットが加速する兆しもあるようだ。






最終更新日  2021.02.27 07:30:30
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2021.02.26
カテゴリ:生活雑記
~ドクターの言葉~

  

 ふと見るとハイビスカスの花が咲いていた。この冬確か8つ目の花。夏の外ででもひと夏に咲くのは3つほど。それが居間に取り込んだ冬にこれだけ咲くのは、常時暖かいのが一番の原因だろう。日中は大きな硝子戸を通じて日が差し込み、夜は夜で常時暖房。そして表土が乾燥したら直ちに給水。そんな環境が鉢植えのハイビスカスには結構良かったのかも。とも角冬の室内で花が見られるのは嬉しい。

            

 翌日は朝食後直ちに自転車で山の上に。前日ドジを踏んだリベンジだ。この日も強烈な西風。その強風の中をひたすら前進。元研究所跡に出来た団地に、もう20軒ほどの住宅が新築工事中。ここだけでなく近所の空き地と言う空き地には、ほとんど新しい家が建った。年寄りが去った家の土地が売られ、整地した後で次々と新築工事が進む。わが家にも家を売って欲しいとの広告が何度も入るが全部無視。

  

 病院に着くと駐車場に3台の車。待合室には何組かの患者さんが座っていた。先ず受付に診察券や保険証などを提出。次に暖かいお茶を飲み、体が落ち着いた頃に血圧を測定し、その小片を受付嬢に手渡す。名前が呼ばれて処置室へ。ここでは血糖値を測るための採血。「ぎゅっと握って」と言うので「ぎゅっ!」と言って看護師さんの手を握ったら、「そうじゃなくて」と苦笑いの彼女。ほんの冗談だ。ぽっ

            

 順番が来て、診察室に呼ばれる。「体調はどうですか」とドクター。そこで最近心配した体調のことを話す。第一に「脳梗塞の場合は先ず両手に痺れが来る由」。それはなかった。次に手首に指を当てて脈を診る。「不整脈もなく規則正しいです」と彼。どうやら心電図を撮る必要もないようだ。いつもの薬と睡眠導入剤。そして「漢方薬を追加しましょう」と。気分が楽になる由。コロナ自粛の今は、私と同じような体調を訴える患者が多いそうだ。長時間PCをやってると、肩が凝るしねとお見通し。なるほどねえ。

  

 そして、「男は気分転換が得意じゃないからね。たまには温泉へ行ってゆっかり浸かると良いんだよ」とも。そりゃあそうだ。自分でもそう思っていたもの。帰宅後、薬局でもらった薬をテーブルの上に広げる。新しい漢方薬まで加わって、まあ大変な量だ。果物中心の軽い昼食後、歩いて郵便局へ。買い物もあるし、念のため少し多めに下ろした。偶数月の今月は2種類の年金が振り込まれる。帰宅後通帳をじっくりと確認。ああ、良いねえ。この調子で頑張って節約に励もう。

           

 夕刻、保険屋さんから電話。先日提案された新しい保険への切り替えに関して、告知が必要だが翌日しか時間が空いてない旨。そちらの都合に合わせると言って電話を切る。夕食前に漢方薬を水で飲む。爽やかな味わいで、それだけでも気分が良い。残りの薬は食後。ピンポンとチャイムが鳴って、新聞屋さんの集金。まだ強い風の中で集金をして歩いている小母さん。ご苦労様と労を労って支払い。

  

 翌日、保険屋さんの告知などに約2時間を要す。現在治療中の病気、過去に受けた手術や入院した病気。最近の症状など実に細かい調査。昭和、平成、令和と時代が変わり、その該当年がいつだったのか思い出すのに一苦労。彼女の助けを借りて何とかクリヤー。夕食はつくばのN氏の忠告通り「肉うどん」。入浴時に体重を測ると1kg以上減っていた。良かったねえ減量出来て。少し元気回復してブログを更新。ここ数日間荒れ狂っていた暴風も、ようやく落ち着いたようだ。そして日差しは既に春のものだ。






最終更新日  2021.02.26 07:18:21
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2021.02.25
カテゴリ:生活雑記
~天皇誕生日の話など~

  

 そうだ病院へ行こう。そう決めて前日から自転車のバッテリーを充電していた。早々に布団をベランダに干して山の上の内科へ向かう。風が強い。その風に逆らってペダルを踏む。たちまち手がかじかむ。病院まではずっと上り。そのためにかなり電力を消費するのだ。坂の途中で「アッ」と思った。マスクをするのを忘れた。いつもは家に一人でいるため、外出時にもつい忘れてしまうのだ。さて、どうしたものか。

           

 また引き返すのも面倒。病院の隣の薬局で売ってるかも知れない。そうしよう、そうしよう。だが薬局は閉まっていた。シマッタ!隣の病院の駐車場には1台の車も見当たらない。どうしたんだろう。いくら患者が少ないと言っても、こんなことはないはず。入口まで行くと、玄関の扉に何か張り紙がしてある。「本日は祝日につき休院します」だって。あれっ、今日って祝日だったの。天皇誕生日ねえ。ショック?

  

 そう言えば、新聞に天皇陛下の写真が載っていた。ははあ、あれはそう言う意味だったのね。昭和天皇は4月29日が誕生日。上皇様は12月23日だった。だが今上天皇の誕生日はすっかり失念していた。だって令和もまだ3年。私にとって今上天皇は浩宮様の方が馴染みやすい存在。仕方がないので帰途に就く。途中のコンビニで大福餅と安売りのパンを買った。一人で頑張って生きている自分へのご褒美。

             

 帰宅すると干していた布団がめくれ上がっていた。強風と言うか暴風だ。どうやら県下には暴風警報が発令されていたようだ。そうとも知らず、また祝日であることも忘れて、良くこんな日に自転車で山の上まで上ったものだ。お陰でバッテリーの電力が20%も減った。カレンダーを見ると確かに祝日になっている。まあ暢気なものだ。そんな自分に呆れ果て、大きな豆大福にかぶりついた。

  

 風が吹き荒れる音が凄い。布団が吹き飛ばされなくて良かった。急いで取り込んだが、ずいぶんと埃を被ったかも知れない。長い人生、まあ時にはこんな日もあるさ。しかし、強い風だけでなく家が揺れるのは何だろう。翌日見回りに行くと、2階の洋間1で写真が転げ落ちていた。やっぱり風だけでなく、地震もあったのだ。先だっての福島県沖地震の余震か、それとも「東日本大震災」の余震か。<続く>






最終更新日  2021.02.25 00:00:08
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2021.02.24
カテゴリ:生活雑記
~一人住まいと体調不良~

  

 体調不の悪さはブログを書いていても分かった。わずか4行の文章を2回書くだけで2時間を要する始末。書いているうち体がどうしようもなく苦しい。そんな日が2日続いた。一体これはどうしたことだろう。体の不調もさることながら、心の不調も際立っていた。「生活不活発症」。ふとそんな言葉も浮かんだが、これはトンデモナイ病気の予兆かも知れない。そう思うようになった。例えば脳梗塞だ。

               

 午前中に保険屋さんがやって来た。年に1度契約者に対して説明する義務があることは知っていた。だが彼女は2年間も来なかった。それで不都合はなかったし、その間に新型コロナウイルスによるパンデミックもあった。そしてそれが理由で入院した際も、入院給付金が降りることは電話で連絡を受けていた。彼女が今回来たのは新しい契約に切り替えるためのようだ。まあ年齢に応じて保険の内容を見直すのは、悪くない提案だった。

  

 彼女が帰ってから簡単な昼食を摂り、疲れ果てて昼寝をした。まだ彼女の香水の香りが残っていた。わが家に女性が入ったのは、いつ以来だろう。それに香水の匂いを嗅ぐなんて久しぶりのこと。いつもは自分の加齢臭が漂う室内に、紛れもない女性の匂い。やっぱり女は良いなあ。そう思いながらいつの間にか深い眠りに陥った。

              

 その夜は冷蔵庫の中の食べ物を幾つか組み合わせて、割と豊かな夕食にした。体調が良くないのに、食欲までなくなったらお終いだ。そしてお風呂に入って早めに寝よう。やっとの思いでブログを書き、余白に体調不良とブログを休む可能性について記した。最近はブログを書くのが正直しんどくなっていた。以前なら書きたいテーマが幾つもあったのに、今では探すのでさえ苦痛なのだ。

  

 温い風呂にゆっくり浸かり、これできっと良く眠れるだろうと布団に潜り込んだ。昼寝した割にはまあまあ眠れたようだ。夜中にトイレに起きたのも1回で済んだ。翌朝はきれいに晴れた。PCを立ち上げるとつくばのYさんがコメントしてくれていた。筑波勤務時代の後輩の彼には、鳴門の職場でも水戸の職場でも私の後始末をしてもらった。共に女ボスに頭を下げなかったために出世はしなかったが、それはそれで誇りでもある。

             

 筑波勤務時代の後輩K谷氏は後に研究者に転じたが、若くして胃がんになり死の直前ブログでお別れの言葉を書いたと聞いた。彼と最後に会ったのは沖縄の職場。私が筑波を去って以来だから、20年近く経っていたはずだ。筑波時代の先輩Y浅氏は優秀な人だったが、75歳で脳梗塞で亡くなった。人の命の儚さと、人生の深遠さを感じてならない。特に新型コロナが猛威を振るう今は。<続く>






最終更新日  2021.02.24 00:00:07
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