マックス爺のエッセイ風日記

2016/06/30(木)06:04

歴史と旅 その4

日本史全般(84)

<城下町としての遠野>     「歴史と旅」をシリーズ名にしながら、まだ歴史的なことはほとんど書いていない。第4回目の今日辺り、そろそろ歴史について書いても良いころだろう。「とおの物語の館」を見学した後、私は「遠野城下町資料館」と「遠野市立博物館」を訪れた。そこで撮影した写真を中心にして、今日は話を進めようと思う。  盛岡藩(南部藩)を治めた南部氏の本貫は甲斐国(現在の山梨県)の南部町にあった。源頼朝の奥州藤原氏追討により東北は鎌倉幕府の勢力下に置かれた。南部氏は小舟に乗って太平洋を北上して現在の八戸付近に上陸し、新しい領地を治めた。  やがて戦国時代になると、現在の青森県の全体および秋田県の鹿角市付近まで版図とするが、家老大浦氏の裏切りにより津軽の領地を奪われる。大浦氏は津軽氏と名乗り、秀吉によって10万石を安堵される。津軽と南部が仲が悪いのはそれ以来のことで、両氏は江戸城中でも顔を合わせなかった由。なお南部氏の所領は夏泊半島の東部から下北半島の先端にまで及び、十和田湖周辺にまで広がっていた。恐らく現在の感覚では信じられないだろうが。       南部藩はやがて盛岡に城を築き、そちらが中心となって行く。ここ遠野は元々阿曽沼氏が治めていた土地で、鍋倉城がその居城だった。寛永4年(1627年)本来の所領だった八戸から南部直義が入部。以後遠野南部氏と称され、12500石の城主となり、明治まで続いた。遠野南部氏は代々盛岡藩の家老として勤めた。          またここ遠野に城を築いて南部氏の一族を置いたのは、すぐ南側が伊達領だったため。遠野は仙台藩と盛岡藩の境界に近かったのだ。これも現在ではなかなか信じられないが、伊達は一関、水沢、平泉から陸前高田付近までを所領としており、北上山中の重要な鉱物資源を巡って、南部藩と争っていたようだ。なお地図の赤く塗られた範囲が現在の遠野市。       遠野南部氏の家紋。本家に遠慮し、家紋は周囲の「外輪(円)」を省いた由。    大名行列を織り込んだ模様。遠野南部氏が単独で大名行列を行ったかどうかは不明。           左は鎧兜と采配。右は兜と軍扇。          見事な一振り。          笠各種。      左は裃(かみしも)で右が根付(ねつけ=煙草入れなどが落ちないよう帯に挟む小道具)           左は各種の鏃(やじり)で、右は乗馬の際に足を置く鐙(あぶみ)。                          刀の鍔(つば)各種。                   南部藩藩士の武者姿                     打掛(うちかけ)              べっ甲製の簪(かんざし=左)と花瓶                 蒔絵塗りの香炉入れ2種             持ち運び可能な重箱入れなど             貝合わせ             花巻人形のお雛様                      花札             町人の暮らしぶり  ただ現地で撮った写真を並べただけだが、藩政当時の遠野の姿が、少しは見えただろうか。写真が多くてなかなか旅が前に進まないが、おそらくは明日も遠野の話になるはず。気長にお付き合いいただけたら嬉しい。<続く>

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