テーマ:美術館・博物館(1550)
カテゴリ:文化論
<「業の蔵」と「住の蔵」>
さて4日間中断していたこのシリーズを再開しようと思う。斎理屋敷の10以上ある蔵のうち、今日は「業の蔵(なりわいのくら)」と「住の蔵(すまいのくら)」を紹介したい。少しでも生きた博物館としての斎理屋敷の雰囲気を感じていただけたら嬉しい。 これが業(なりわい)の蔵<登録有形文化財指定>の入り口。見事な造りであると同時に、機能美を備えた建築物であることが分かる。明治初期の建物で柱を外壁に出し、漆喰で塗り固めている。当時は太物(木綿)やご祝儀用の組膳を収納していた。 軒先に掛かる看板は、大きな桝の中に米が入っている。 1階の奥に、たくさんの米俵が積んである。この斎理が米を扱う商売をしていたわけではなく、これは食料として蓄えていた物だろう。旦那衆だけでなく、番頭から丁稚に至るまで屋敷内には大勢の人が暮らしていた。当時は米が主食だから、毎日たくさんのご飯を食べたはずだ。 米俵の前に鎮座する釜。斎理屋敷では、朝昼晩それぞれに3升の米を炊いたようだ。1人1合としても、最低で30人分の食欲を満たしたわけだ。 これは菜切り包丁か。鉄製の包丁は使わずにいると、たちまち錆びてしまう。 伊達藤五郎は伊達政宗の家臣で従兄弟である伊達成実の仮名。亘理伊達氏の初代で領地は亘理(2万石余)だが、丸森にも領地があったため、この屋敷に泊ったのだろう。 住の蔵(すまいのくら=登録有形文化財指定)は明治初期の建築。柱と柱の間隔が狭く、栗や杉の材木で頑丈に造られていた。この蔵では客の質草を保管し、2階は使用人が起居していたせいで、たくさんの落書きが残されている。 軒先に掛かる看板の意匠は障子だった。 かつて暖房用の燃料の主役は炭だった。冬は炭を熾(おこ)して火鉢に生け、暖を取った。 かつての照明器具。照明はハゼの実の油で作るロウソクが一般的だった。これはそのロウソクを立てる燭台。行燈(あんどん)や灯篭(とうろう)にロウソクを入れる場合もあった。 手広く商売を行っていた斎理屋敷では、様々な形の引き出しがたくさん備わっていた。 左はかつての納屋(なや=作業小屋)の模型か。右の蓑(みの=合羽)は業の蔵にあったものだが、内容的にここが相応しいと考えて移動した。 2階へはこの箱階段(はこかいだん)で登る。これは収容能力を高めるためで、階段の下は引き出しになっている。全ての蔵の階段はこの箱階段だった。 これが奉公人たちが残した落書きの例。落書きとも思えない立派なものだ。江戸時代から「読み書き算盤」は町人たちの必須科目だった。屋敷の奉公人たちも習字や算盤(そろばん)の習得に精進したのだろう。この識字率の高さが明治の近代国家樹立後も大いに役立ち、日本が先進国の仲間入りを果たす原動力ともなった。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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