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マックス爺のエッセイ風日記

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2018.11.16
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カテゴリ:日本史全般
~仙台市博物館特別展から~


         <在りし日の仙台城大手門=坂の上>
  
 簡単に東北の戊辰戦争を振り返ろう。同盟軍は関東との境にある白河に結集して戦って敗戦。仙台藩も領地へと退く。官軍は陸路からだけでなく船でも進軍した。越後の諸藩は敗れて降伏。近代兵器を整備していた長岡藩も敗れた。太平洋側では官軍は茨城の平潟港に上陸し、進攻を開始。会津領へは、越後、日光、白河など数か所から攻め入った。そして鶴ヶ城は落城し、白虎隊は自刃した。

           奥羽越列藩同盟隊旗   

  官軍に敗れた同盟下の藩は恭順の意を表するため、今度はかつての仲間であった別の藩を攻撃する立場となる。かくして仙台藩も官軍、相馬藩と藩境の旗巻峠などで戦い敗北する。官軍側の近代兵器に対し、仙台藩の大砲の弾は陶製。これでは勝てっこない。秋田の佐竹藩も官軍側に就く。こうして奥羽越列藩同盟は善戦も虚しく敗れ去った。

    五稜郭

 敗れた「賊軍」のうち、さらに官軍と戦おうとした者たちは蝦夷地(後の北海道)へと渡った。箱館(後の函館)の地に築かれた五稜郭に立て籠もり、さらに一戦を交えようとしたのだ。江戸から脱出した榎本武揚や新選組の一部もこれに加わり、蝦夷地に自治領を築こうとしたのだ。だが嵐で艦船が沈むなどして、最後の砦の五稜郭も官軍に屈した。

  敗戦後の仙台藩版図  

 敗れた賊軍は新政府から厳しい扱いを受けた。「同盟」の中心となった仙台藩は62万石から28万石へ減らされた上、かつての領地を分割し他藩の管理下に置かれた。このため大勢の家臣は失職し、新政府の斡旋で北海道の開拓に当たった。伊達家臣団の開拓地は、道内で10数か所に及んだ。

 また会津藩は下北半島へ移され、斗南藩として再出発したが、そこは不毛の土地で家臣団の労苦は筆舌に尽くせないほど。その一方で、早めに官軍に加担した藩は領地を増やした。秋田の佐竹藩は、旧南部藩の鹿角地方を手にした。そこは良質の金属の産地でもあった。

  
 
       <仙台藩洋式軍隊「額兵隊」の軍服=レプリカ>

 新政府発足後も東北への圧政は続き、「白河以北一山百文」との言葉も生まれたほど。東北の地は何の値打ちもないと言う意味だ。それが覆されたのは、元勲大久保利通が伊達政宗の遣欧使節を知って以降。徳川に対抗するため、スペインと結んで通商を進めようとした英雄が東北にいたことを知って反省し、急速な近代化を図った。第二師団、第二高等学校の仙台への設置などがその例。残念なのは宮城県の野蒜築港が嵐でとん挫したこと。もしこれが成功していたら、横浜港よりも早く近代港湾が出来ていたのだ。

 

 会津は初めから反逆したのではない。孝明天皇から晨書を戴き、感謝もされていた。だが薩長主体の官軍はそれを知らずに逆賊と見做し、自らを正義とした。仙台藩の取りなしも聞かれず逆賊となった東北の諸藩。

 歴史を紐解けば、太古の蝦夷征伐、頼朝軍による奥州藤原氏の征伐、そして戊辰戦争。東北は3度も朝敵となっている。だが会津には会津の正義があり、東北には東北の熱い思いがあった。歴史は勝った者によって書かれる。だが書かれない歴史や明かされない正義もある。堕落した明治新政府と袂を別った西郷隆盛の「敬天愛人」の精神を、もう一度思い起こしたいものだ。<完>





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Last updated  2018.11.16 07:39:54
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