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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.01.23
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~住まいと暮らし~

  
       <重要文化財 中村家住宅 沖縄本島北中城村>

 平成元年に初めて中村家住宅を訪れた時には驚いた。よくもこれだけ立派な民家が残っていたものだと。なぜならここらは大戦の戦火で、すべてが焼けつくされた地区。堂々たる構えで石の「ひんぷん」(目隠し)も初めて見た。母屋は表の一番座から三番座まで。二番座が確か仏間だったはず。その陰に裏の一番から三番まで3部屋。寝室や物を置く場所だ。東の離れには太陽信仰の場所があった。

           

 母屋の軒先は長く突き出ている。「あまはじ」と呼ばれ、強い日差しを避ける工夫。屋根は赤瓦を漆喰で固めてある。もちろん強い風雨から守るためだ。敷地の一角には高床式の倉庫や家畜小屋もあり、「フール」があった。これはトイレで、その下の石囲いの中で豚を飼育している。当時は大家族で大量の芋が食料だから、きわめて合理的な考え。それも沖縄独自の立派な文化であり、恥じることはない。

  
      <重要文化財 上江洲(うえづ)家住宅 久米島>

 久米島の上江洲家住宅を訪ねたのは、今から4年前の70歳の時。最後のレース「久米島マラソン」(フル)出場の際だ。ここは具志川城主の末裔と伝わる旧家で、王朝時代は島の頭職を務めていた。中村家住宅同様の造りで、倉庫や家畜小屋とフールの形骸が残っていた。久米島最高の祝女(のろ)である君南風(きみはえ=地元ではちんべー)の拝所も近く、王朝時代の暮らしぶりが偲ばれた。

  
        <重要文化財 宮良殿内(どんち) 石垣島>

 石垣島の宮良殿内を訪ねたのは、大阪勤務当時の平成8年。宮良家は琉球王朝時代、八重山の頭職(かしらしょく=取締り)を首里の王府から命じられた家柄。当家の歴史史料の一部は、琉球大学附属図書館に保存されている。宮良家の「名乗り頭」は「當」。「當壮」などのように、先祖代々名前の先頭に「當」の字を充てた。貴族の名乗り頭は「朝」。日本の「朝臣」(あそん)から来たとの説がある。

  
       <国の有形文化財 竹富島の赤瓦集落>

 八重山地方の竹富島には、4年ほど前に観光で行った。赤瓦の集落で有名だ。人口およそ300人の小さな島だが、ここで驚くべきものを発見。写真を撮った山の名が「赤山」で、「われわれの先祖は平氏」と書かれた案内板があった。赤は平家の旗の色で、先祖を忘れぬよう、物見の小山を「赤山」と名付けた由。そう言えば沖縄には「南走平氏」の伝説が残されている。その一方、源為朝伝説も伝わる。

        

 沖縄の習俗の一つが「石敢當」(いしがんどー)とシーサー。前者は三差路には必ず建てられると言って良い石の標識。これは中国の勇者の名を石に刻み、魔物を避けたとの伝え。遠くは九州にもあると聞いた。右のシーサーは本来「獅子」で、沖縄では守り神のような存在。屋根の上にもあり、魔物の侵入を防ぐ働き者だ。第二琉球王朝の王墓「玉陵」の屋根でも、にらみを利かせて鎮座している。<続く>





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Last updated  2019.01.23 00:00:24
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