マックス爺のエッセイ風日記

2019/08/19(月)07:17

せんそうについてのかんそう

歴史全般(86)

~8月は日本にとってどんな意味を持つのか~     8月はなぜか物悲しい時でもある。8月6日はヒロシマの日。9日はナガサキの日。そして15日は玉音放送が流れた終戦記念日。近隣諸国にも大きな迷惑をかけた第二次世界大戦。日本は戦争の当事者であり、かつ連合軍と戦って敗れた敗戦国でもある。この戦争に果たして一体どんな意味があったのか。あるいは無かったのか。その総括を、わたしたちは今どのようにすれば良いのだろう。           なぜ日本は戦争の当事者になったのか。そのことをわたしは授業で学んではいない。当時の世界情勢は果たしてどうだったのか。日本が経済的に追い詰められ、軍縮を迫られ、苦しくなっていたのは間違いない。アメリカのルーズベルト大統領が強大化する日本を危険国家と見なしていたのは事実だし、彼の判断が日本を戦争へと追い込んだのも事実。拡大主義に陥って大陸に進出した日本は泥沼に足を突っ込んだ。     大元帥だった昭和天皇に責任は無かったのだろうか。全くないとは言えないだろう。だが彼は立憲民主制における天皇の位置を良く理解し、政治に口出しすることはほとんどなかった由。それでも事態の進展を憂慮し、陸海両軍の責任者に戦争を回避出来ないか問うたと『昭和天皇実録』にある。東京裁判では天皇の戦争責任が問われかけたが、進駐軍が天皇制の意義を認識し、辛うじて責任は免れた。            対米宣戦布告の遅れは、担当官の寝坊が原因と聞く。どんな理由でも国際法違反だ。ソ連の対日宣戦布告も条約無視の国際法違反。日本は既にポツダム宣言を受け入れていた。千島、樺太、満州へと乱入したソ連兵によって、日本の領土と財産は奪われ、元日本兵はソ連各地に抑留され、シベリア鉄道の敷設作業などに従事させられた。寒さと飢えとでバタバタ倒れ、次々に死んで行った元日本兵たち。     第二次世界大戦で死んだ日本人は約300万人。だがそれとほぼ同数、他国民を死に追いやった。東アジアの独立と開放を謳った「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」は果たして幻だったのだろうか。いや、戦後そこに留まり、その国の独立戦争に加わった兵士も多い。現にフィリピン、インドネシア、インドなどでは独立出来たのは日本のお陰と今でも感謝し、パラオや台湾も日本統治の恩義を忘れてはいない。           日本の敗因は何だったのだろう。日清、日露戦争で勝ったことによる自信過剰。アメリカの物量を見誤り、戦闘は短期で終結するとの判断ミス。陸海の不和と作戦ミス。物資の圧倒的な不足と空軍力の決定的な不足。戦地の拡大に伴う補給路の長距離化。大本営発表とマスコミの過剰報道と乖離。終戦時期の判断ミス。アメリカは勝利後の日本統治策まで考えていたと言うのにだ。     欧米列強による植民地経営史は長い。だがどの国もかつての植民地に謝罪した事実はない。日本はどこかを植民地にしたのだろうか。答えは「否」。植民地政策とは、その土地の生産物や労力や富を収奪すること。日本は朝鮮や台湾、南洋諸島を本土並みに整備し、教育や医療、文化のレベルを引き上げ、収奪はしなかった。台湾やパラオが今でも感謝を忘れないのはそのため。ただ中国と半島国家は歴史を歪曲する。                わたしは思い出す。戦地から帰った父の義足。飢えた少年期。ありがたかった給食。近所にいたパンパンガール。戦車からチョコレートやガムを投げた米兵。進駐軍キャンプのMP。闇屋をしていた父の苦労。女運に恵まれず、40歳で死んだ父。それよりも若くして死んだ英才の姉。戦争で破壊されたわが家庭。わたしはアルバイトをして高校を卒業した。それらがわたしの戦争にまつわる思い出話。     初代宮内庁長官へ昭和天皇が語った「拝謁記」が最近発見された。天皇は戦争に関する反省と後悔を、自ら公表しようとされた由。だが吉田総理は天皇が示した文案を修正し、天皇もこれに従って反省表明は叶わなかった由。戦後「シンボル」となった天皇の苦悩が良く分かる逸話だ。さて、私の宿題は「満州事変」と「支那事変」。前者は軍部暴走の端緒として、後者は戦争の泥沼化を招いた原因と思うからだが、その実態を知らないままなのだ。            昨日のレースは無事ゴール出来た。スタート地点から順調に走り出したものの、晴天になるにつれて気温は急上昇し、9km過ぎからは歩くことを選択。そのまま走れば、多分体調を崩すとの判断だ。ゴール手前3kmの路上気温は36度を表示。私の判断は正しかったと思う。当日撮った写真を整理後、改めて完走記を掲載する予定。応援、どうもありがとうございました。

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