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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.10.22
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<宮城県の土偶>

  

 さて再び土偶の話に戻る。東北歴史博物館で開催された特別展『蝦夷 ~古代エミシと律令国家~』(11月24日まで開催中)を観るのが目的だったが、企画展「宮城の土偶」にも興味があった。65枚ほどの土偶の写真を撮った。あえて4回に分け、その間隔を開けた。理由は専門的な内容の記事を4日連続では飽きると思ったのだ。それで土偶同様にバラバラに分けた次第。ショック

           

 それで写真の説明も簡単にした。到底専門的なことを書く能力がないからだが、こんな地味なものにも読者が関心を持ってくれただけで嬉しい。明らかに縄文人は私たち日本人の祖先。その遠い祖先たちが、なぜこのようなものを作ったのか。それを感じ、考えてもらえたら嬉しい。それが私の願いだ。

  

 縄文土器は世界で最も古い土器と言われている。彼らが作った土偶にも、彼らの宗教性や思想が強く反映されている。今よりもずっと人口密度の薄かった時代に、人々は肩を寄せ合うように協力しながら暮らしていた。

       

 それで平均寿命が37歳と言う、彼らの生活が維持出来たのだ。37歳は短いと思う人が大半のはず。だが数十年前までのインド人の平均寿命は40歳以下。女性は15歳くらいで結婚し、30歳くらいでお婆さんになるのが普通だったと聞く。

  

 子孫繁栄と健康を祈って土偶を作り、自らの身代わりにせっかく作った土偶を壊した。壊すことによって人は長生きし、幸せを得る。現代人から見たら不思議な感覚だが、後の人形も全く同じ思いで作られたことは既に書いた通りだ。

            

 こんなあどけない顔をした土偶を作る縄文人の凄さは、当時から既に広範囲の交流をしていたことだ。青森市の三内丸山遺跡には、北海道から矢じりやナイフの材料になる黒曜石(こくようせき)が、岩手県からは琥珀(こはく)、秋田県からは接着剤になるアスファルト、そして新潟県からは翡翠(ひすい)が届けられている。もちろん当時は丸木舟しかない。その小舟で海を渡っていたのだ。

  

 もっと驚くのは釧(くしろ=腕輪)の材料であるイモガイやゴホウラガイなどが遥々運ばれて来たことだ。それらは沖縄近海でしか獲れない種類の貝。そして沖縄の宮古島でも縄文土器が発掘されている。そのことでも縄文人の能力の高さが分かるだろう。

      

 私たちが習った縄文人は、採集生活をしていたと言うことだった。男は海で魚や貝を獲り、山では獣や鳥を獲った。その間女たちは機を織り、木の実を拾った。そんな風に教えられて、縄文人のイメージが定着していた。

  

 だがその後の研究で、縄文人が作物を栽培していたことが分かった。粟(アワ)や稗(ヒエ)などの穀物や荏胡麻(エゴマ)なども。そして食料として確保するために大規模の栗林(三内丸山)や、塗料や接着剤としての漆(ウルシ)の栽培(八戸市是川遺跡)も確認された。

       

 さらに驚くことに、これまで弥生時代から始まると考えられて来た稲作が、実は縄文時代から行われて来たことが分かっている。ただし、水稲ではなく陸稲(おかぼ=焼畑による)なのだが。その可能性について、私は23年ほど前の職場の研究者から話を聞いていたが、まさか本当だったとは。

  

 そして弥生時代の始まりも、これまでより500年も古いと考えられることが分かって来た。それに加えて分子生物学の進展。DNA解析によって人類の遺伝子がほぼ正確に確認され、祖先が辿った道のりまでが判明し出した。ただし男子と女子とでは判別出来る遺伝子の型が違うのだが。

             

 いやはやとんでもなく話が脱線したようだ。私は夢中で土偶の写真を撮りながら、一抹の寂しさを感じていた。それは宮城の土偶は少し貧弱なように感じたからだ。八戸市是川遺跡の合掌土偶(下A)、青森県亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶(下B)のような凄さはない。それに新潟県の火焔型土器(下C)のような物凄いエネルギーの土器も県内では見つかっていないからだ。

    
      A           B            C

<参考資料> A合掌土偶(青森県八戸市是川遺跡出土)
       B遮光器土偶(青森県亀ケ岡遺跡出土)
       C火焔型土器(新潟県立歴史博物館所蔵) いすれも国宝または国宝級のものです。

          

 でも他県の遺物と比較する必要もないだろう。それらの地区は縄文時代の先進地帯だったのだ。それだけ海流を通じての交流があったのだろう。だがこの土偶を見直したら、ちゃんと服を着ている。まんざら劣っているわけでもないだろう。そう思うことにした。

  
      

 そしてちゃんと遮光器土偶になってるもの(上)や、ユニークなハート形の顔の土偶(下)もあるしね。ちなみに「遮光器」と言うのはイヌイット(かつてはエスキモーと呼ばれていた民族)が雪の反射光を避けるためにかけている「眼鏡」に似ていることからの命名。

  

 そして展示室を出てから驚いた。なんとそこには「撮影禁止」と書かれていたのだ。前回は撮影許可だったのですっかりその気になっていた自分。しかしなぜ撮影禁止なのかが分からない。撮影して困ることがあるのだろうか。展示品が各市町村からの借り物だからなのか。論文が未発表のためなのか。著作権があるとも思えないし、逆に良いPRになると私は思うのだが。とも角ここは謝っておこう。ショック<完>





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Last updated  2019.10.22 09:58:56
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