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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.12.26
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~街の発展と新たな知見~

 「おもろまち」風景  

 モノレールを降り西に向かう。30年前と異なり、副都心らしく変貌していた。町の名の元になった「おもろさうし」は王朝時代の「歌謡」(口に出して謡う詩のようなもの)で、ひらがな表記。当時の公用文は平仮名が主体で、漢字の使用は確か14世紀頃からだったはず。それも中国からではなく日本から伝わったのだ。さて、旅の最終日の主目的は、ここにある県立博物館を観るため。以前にも1度来たが、博物館への案内表示が全くなく不安になる。

    旧米軍住宅

 この旧天久(あめく)地区には戦後米軍住宅が立ち並んでいた。那覇の一等地を占める広大な米軍宿舎。ゴルフの練習場や文化施設もあったと聞く。空襲で一面焼け野原となり、粗末な沖縄の住居とは雲泥の差だ。ベトナム戦争の敗戦後大量の米兵が去ると、基地返還要求の動きが激しくなる。最初に返還の候補地に挙がったのが天久地区。一等地で広大なのだから至極当然の要求だ。

  更地になった天久地区   

 米軍関係の建物は全て取り壊され更地に。その後埋蔵文化財の発掘調査。だがあまりにも広大で時間を要した。それが幸いし、私も在勤時に発掘作業を見学出来た。ここから出たのは「貝塚時代」から琉球王朝時代までの遺跡。中でも佐銘川大主(さめかわうふしゅ)の亀甲墓発見が最大の収穫だったはず。今回その写真を博物館で観られて良かった。

    沖縄県立博物館・美術館

 何とか博物館に着いたものの、正面入口が分らない。モノレール駅からのアプローチと言い、敷地内のサイン計画と言い、観光客には不親切この上もない。きっと管理者はそのことに気づかず、その指摘もなかったのだろう。チケットを求め、キャリーバックをコインロッカーに預けて入館。ところが常設展会場入口の床がガラス張りのため下が透けて見え、とても怖い。ショック!

  屋外展示1(古民家)  

 旅行に行く前、博物館内での撮影が可能かをネットで調べて驚いた。撮影希望者は申込用紙をプリントアウトし、2週間前に許可申請してほしいとHPにあった。それじゃPCやプリンターの無い人はどうするのか。観光が売りの沖縄県が役人根性丸出しの運営では困る。幸い少数の展示物以外は撮影出来たが、会場の小母ちゃんがしつこく注意するのには参った。多分彼女はそう指導されているのだろうが。

    屋外展示2 高倉

 そこで小母ちゃんに言った。「注意事項を一度読んだら分かる。それに俺は博物館にも勤めていたし」と言うと「どこの」と聞くため、「大阪の国立民族学博物館」と。無論知るはずない。展示物を動画で解説する「ビデオテーク」や、「マルチメディア展示」を国内で最初に開発し、写真撮影OKで展示物にも触れても良い自由で学術性に富む博物館。地域研究専攻の大学院もあるのだが。

    常設展の一部   

 「浦添ようどれ」の石棺に見入っていると今度はガードマンの小父さんが、「本物は浦添のようどれ館にある」と。この人も素人。目の前のが本物で、私はようどれ館で模型を観て来たばかり。私は「本物」の感触を確かめた。石の質感が凄い。さすがはわざわざ中国から運んだだけのことはある。大きさも装飾も王の棺に相応しい風格を有し、盗掘時に開けた穴も、内地の盗掘石棺の特徴とまるきり一緒だった。

    やんばる船(近海用)

 この2人もホテルの食堂の小母さん同様、一流の施設で働いていると、自分までが偉くなったような錯覚に陥り、つい威張りたくなるのだろう。写真は400枚ほど撮ったが、ネットの写真には私が欲しいものはなかった。素人の関心ははそんなもの。だが今回の来館で新たに得た知見が幾つかあった。

  進貢船(遠洋航海用)  

 県内の発掘件数が増えて成果が上がり、新たな発見につながっていると感じたこと。弥生時代の須恵器が、先島(八重山地方)にまで及んでいたこと。日清戦争前に日本と清との間で西南諸島を3分割する案があったこと。(これは日清戦争の日本の勝利で反故となり、台湾まで日本に割譲された)。石垣島白保発掘の人骨が日本最古で、DNA解析で特徴が明白になったこと。

     

  棺桶を載せて運ぶ輿(確か「がん」と言ったはずだが漢字は不明)

 今帰仁村の百按司墓(むむじゃなばか)から人骨を持ち去った京都大学に対し、返還するよう法的措置を取っていること。「港川フィッシャー人」の遺伝子解析から、復元像を作り直したこと。かつての糸満の魚売りの女性の声が、「ヨー、こーとれや」と私には聞こえた。「よー」は魚(うお)の変化。「こーとれ」は買っておくれか。昔から糸満女性は強く、漁師から魚を仕入れ売った代金を自分で管理していたことで有名。糸満の漁師たちは小舟に乗って、遠く五島列島までトビウオを追って出漁した。当然遭難の危険性が高く、残された妻は女手一つで稼いだのだろう。それを私はあの「売り声」で実感した。

             

 2時間半ほど見学し、アンケート用紙に感想を記した。熱心に書いてたら小母ちゃんが悪口を書かれたかと心配になったみたいだが、無論そんなことではなく、元博物館職員の目で見た率直な意見だ。おもろまち駅からモノレールで真っ直ぐ空港へ。使い終えた「1日乗車券」を旅の青年に上げると、とても喜んでいた。空港でも再び奇跡に遭遇するのだが、そのことは次回に記そう。<続く>





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Last updated  2020.12.26 00:00:08
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