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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.08
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カテゴリ:文化論
~あれまあ。どうしてだろう?~

   1)田の神さあ<クマタツ氏撮影>

 過日鹿児島のブログ友クマタツさんのブログ「ジージの南からのたより」を見てビックリ。彼が撮影した1枚の写真に目が釘付けになった。彼は薩摩藩の歴史に詳しく、書かれる文章はとても精緻だ。この日のテーマは「田の神さあ」。薩摩弁で「たのかんさあ」と呼ばれる豊穣の神だが、私はこれはあるものに似てると直感。それは男女のシンボル。左側が女性、右側が男性と見たのだが。思い過ごしだろうか。

   田の神の後ろ姿(クマタツ氏提供)  

 なぜ田の神が男女のシンボルと結びつくのか。田の神が山から里に訪れることは知っていた。「山の神」には奥方の意味もある。それで男女なのか。形が似ている「道祖神」は、長野や関東で祀られることが多い。だが鹿児島は火山灰地層の「シラス台地」が多く、稲作には向いてないはず。それなのになぜ。果たしてどんな謂れがあるのだろうと私の疑問は深まるばかり。そこで調査を開始した。

  

 画像はグーグルの画像検索で探せる。上は鹿児島と宮崎南部の「田の神さあ」。全て男の形だ。宮崎の南部もかつては薩摩藩に属しており、同じ風習が伝わっているようだ。ヒットした画像をクリックすると、撮影した際の記録を得られる場合もある。またウィキペディアで「田の神さあ」や「道祖神」を検索し、信仰の起源や現状などを知ることが出来た。こうして少しずつ疑問が解けて行った。

           
              <宮崎県えびの市の「田の神さあ」>

 「田の神さあ」の形には農民型と神官型があるようだ。神官型の「田の神さあ」は霧島山の噴火で被害を受けた地域に多いそうだ。いずれも豊穣、子孫繁栄、長命を願った由。それほど古い信仰の歴史はなく、どうやら島津藩の新田開発と関係が深いようで、江戸時代に起こった由。豊穣地区の「田の神」を自分の集落に借りる「オットウ」の風習があり、返す際はお礼の品を付け、両地区の農民が共に祝った由。

  
           <長野県安曇野市の道祖神>

 一方「道祖神」(どうそしん)は村境や峠などの道端に置かれ、旅の安全を守る神とされた。先住の国つ神が天つ神に国譲りし、道案内したことが旅の安全神に繋がったのか。また縁結びの神、和合の神とされたのは国津神の猿田彦と天津神のアメノウズメが夫婦となったことに因むのだろうし、安曇野市の道祖神がいずれも双身型なのも同じ理由。冒頭の写真と石全体の形が良く似ているのはそれを意識して作ったからとしか思えない。中国では紀元前から「道祖神」信仰があった由。新たな謎が増えた。

         陰陽石     

 調べるうちに、宮崎県南部に「陰陽石」(いんよういし)と言うのがあると分かった。陰陽とくれば、男女のシンボルに間違いない。左手の溝が陰で女性のシンボル。奥の石はどう見ても男性のシンボルだ。これは火山の噴火で偶に出来た「作品」で、人工物ではない由。それも大正時代に茨城県の人が発見したみたいで、古くから信仰の対象となったものではなさそう。世の中には、そんなこともあるのか。

 1)   2)
           3)

 いずれも長野県下の双身型の道祖神。1)は男女が手を繋いでいる。2)は男女がキスしてる「接吻型」だが、男性の足が女性の股間に伸びているように見える。3)は男の手がおっぱいに触れている。二人は既に恍惚の表情だ。まあ素朴な愛の表現だが、明治新政府はこれらの道祖神を「恥ずべき」ものとして、極力外国人の目に触れない場所に移動させたと聞く。こんな微笑ましい愛の信仰を。<続く>





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Last updated  2021.05.08 00:00:10
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