マックス爺のエッセイ風日記

2021/07/03(土)09:01

世界は嘘で出来ている(5)

ニュース・社会の動き(489)

~映像と真実~     沖縄に関する映像を幾つか観た。正確なタイトルは忘れたが、内容は良く覚えている。一つは1995年の10月。沖縄駐在の米国海兵隊兵士3名が、沖縄の女児に乱暴した事件。米兵は基地に逃げ込み、沖縄県警は取り調べも逮捕も出来ないまま。怒った島民は宜野湾市の海岸にある公園で抗議集会を開いた。基地に逃げ込んだ兵士が守られた理由は「日米地位協定」の存在。そこは治外法権の世界だった。                 これだけの県民が集まることは滅多にない。第二次世界大戦後、奄美と沖縄は米軍の統治下に置かれ、軍政府が指揮を執った。車は右側通行だし通用するのは米ドル(B円)。米軍統治のお陰で良くなったものがある。一つはマラリアの駆除であり、もう一つは米国への留学。だが、荒れ荒んだ米兵の犯罪は多かった。朝鮮戦争やベトナム戦争へ沖縄の若い米兵が派遣され、彼らの精神は病んでいたのだろう。      女子高生仲村清子の演説  この集会で演説した一人の女子高生の顏を今でも良く覚えている。それだけ彼女の主張が理路整然としていたからだし、島民の怒りと悲しみに満ち溢れていたからだ。彼女の訴えは島民の気持ちをさらに高め、米軍基地返還要求運動へと発展して行った。彼女はその後、確か琉球大学理学部に進学したはずだ。米軍も自衛隊も日本政府も慌てた。そして当時の橋本龍太郎総理は、アメリカに飛びクリントン大統領と対談した。      ひめゆり学徒隊がいた塹壕    クリントン氏は橋本総理に言った。何か言い残したことはありませんかと。そこで総理は思い切って口を開いた。「普天間基地」を返還してくださいと。「日米地位協定」に異を唱えることは出来なかったが、市街地の真ん中にあり最も危険な普天間飛行場が返還されれば、県民の米軍に対する心情は大きく変化するだろうと。帰国した総理は早速米軍の責任者と会談した。     市街地の中の基地と普天間飛行場  会談は普天間基地を7,8年のうちに日本へ返還し、その機能を移転することで合意した。これで事態が大きく進展するはずだったが、現実はそうならなかった。その後誕生した民主党政権の鳩山首相が、何を考えたか普天間の移転先を「最低でも県外」と言い放ったのだ。彼にとっては単なるリップサービスの積りだったのだろうが、20年近くかけて整った「辺野古への移転」は、その一言で遠のいた。           大田昌秀知事    当時の大田知事は大戦中は「鉄血勤皇隊員」だった。少年兵だろうか。戦後は早稲田大学に入学し、その後米国に留学。琉球大学教授となってメディア社会学を研究した。そのためアメリカの公文書館などで沖縄関係の貴重な資料を発見した。沖縄勤務当時、私も何度かキャンパス内で遭遇したが、寡黙で穏やかな人だった。その後知事になった仲井間弘多は官僚や沖縄電力の経営者の経験があり、実務家だった。     戦後間もなくの那覇市「国際通り」  那覇市天久の米軍住宅、那覇軍港、読谷村の「ゾウのオリ」、名護市の通信基地は返還され、新たな街づくりが出来た。現実派の彼は沖縄振興と引き換えに「辺野古」への移転と埋め立て工事を容認した。だがその選挙対策委員長だった翁長雄志が「オール沖縄」を標榜して当選すると、辺野古移転も埋め立てにも反対して、老朽化した普天間飛行場の移転は宙に浮いた。そして彼は現職中がんで死んだ。      糸満市摩文仁祈念公園     その後を継いだ玉城康裕(デニー)知事は前立民党の国会議員。彼も「オール沖縄」を標榜する移転反対論者。危険な普天間基地問題には全く触れず、また尖閣諸島海域に侵入する中国の「海警」に抗議もせず、沖縄振興だけは要求して已まない。何の苦労も知らない能天気な男。沖縄振興法案は来年度で打ち切り。もう本土以上に沖縄は整備されたが、金だけは要求する。沖縄は「たかり」精神が旺盛だ。韓国と沖縄はとても良く似ている。     辺野古岬の埋め立て工事現場  辺野古の埋め立て用の土砂は、本部町から南部へと採掘地が変わった。そこからは去る大戦で亡くなった方の遺骨が出る。ところが県も国も何の指示もしない感じ。せめて一か所にまとめて合祀できないものか。沖縄では基地内の土地の権利が取引されている。高額の「土地使用料」が毎年支払われ、もし返還されればその何百倍もの高値で売れるからだ。また値打ちのない土地の返還を拒むケースもあった。沖縄は単なる正義の島ではない。長年住民が嘘をついて遺族年金を詐取していた島もあるのだ。<続く>

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