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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.12.16
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~ふしぎの国・沖縄~

  

 水曜日の朝のこと、朝食を済ませた後いつの間にか座椅子にもたれかかったまま眠ってしまったようだ。目が覚めるとTレビに映っていたのは、このシリーズを書くきっかけになったNHKの番組の再放送。新聞で確認すると2時間近い壮大なものだった。そして以前も載せたこの女性が座喜味さんと言う名で、お母さんは大正生まれと判明。それにしては若々しい。琉球舞踊で体を動かしているせいだろう。

         ノロクモイ図   

 座喜味さんはエキストラだったが、こちらは琉球王国時代の本物の祝女(のろ)。以前も書いたように「のろ」は祝詞(のりと)や呪(のろ)うのような日本の古語と同一の起源を持つ言葉で、神に仕える女性。琉球王朝時代は聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする巫女の組織があり、祝女は国家の安寧を祈る重要な位置づけだった。「クモイ」は尊称で、雲居(くもい=雲の上)が語源か。

 のろは白装束に大きな数珠のような装飾品を首にかけている。おそらくその先端には「勾玉」があるはずだ。足は素足で両手の指には「はじち」と呼ばれる刺青を施している。魔物から身を守るためだろう。このように琉球では祭政が分離して、まるで古代の「卑弥呼」を見る思いがする。

    1)風葬墓

 気温と湿度が高く、石灰岩の洞窟が多い沖縄では風葬募は最も理にかなった葬制だったのだと思う。それが割と近年まで続いた。風葬墓は集落の地縁血縁上大切な聖地で、集落以外の者の立ち入りを赦さなかった。上の写真では多数の頭蓋骨と共に壺が幾つか見える。遺体が完全に腐敗すると、数年後に「洗骨」して壺に納めた。洗骨は昔から女性の仕事とされて来た。

    2)亀甲墓

 亀甲墓は琉球王朝が中国の冊封体制に入って以降、福建省の墓制を真似たもの。その特殊な形から「亀甲墓」と呼ばれるが、これは母の胎内を表し、人は死後に母の胎内に還るためとの説がある。これも風葬の一種で、墓室はかなり広く親戚(門中)が共同で使用した。清明の頃(24節季の一つで4月上旬)は親戚全員が墓前に集まり、先祖を供養した。これを沖縄では「うしーみー」と言う。清明の変化。

 墓室内の手前には「しるひらし-=汁減らし)と呼ばれる遺体置き場があり、腐敗が進んだ頃に扉を開けて洗骨した。死後33年以上経った遺骨はその奥にある「池」と呼ばれる部分に積み上げられ、「先祖」となる。門中の男子は「名乗り頭」に同じ漢字を用いるのが慣習だが、それが残るのは貴族や武士(さむれー)の子孫で、現在も守られる一方で新しい名前を自由につけることも増えた。

    3)門中墓

 これは巨大な倉庫型の門中墓(親戚の共同墓)で、特に有名な例が糸満市にある。また親戚の通称に「向姓」とか、「馬姓」とか「毛姓」と言う呼び方がある。王朝時代中国との貿易(冊封)に関わった上級士族は沖縄式の名の他に中国式の名を持った。それが例として挙げたもの。沖縄では血族意識が高く、逆に地方や離島では地縁を重んじる。血族結婚の機会が増えれば、遺伝学上の影響が生じやすい。

    4)破風墓

 現在も風葬の習慣が残るのは、小さな離島だけになった。理由は火葬場がないためだ。現在の沖縄は土地が限られているため、かつてのような大きな墓を造ることは不可能になった。それでも先祖を大切にする沖縄では、近年現代風の「破風墓」が目立つようになった。この大きさでは親戚の遺骨を全て納めることは出来ないが、家の形をした破風墓も結構場所を取り、施工費も高額のはずだ。

    5)厨子甕

 これは厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる遺骨を納める石製の容器。彩色が施されているので、身分の高い人(家)のものだろう。もちろん、このまま屋外に置かれるのではなく、亀甲墓や門中墓に安置されていたのだろう。沖縄勤務の3年間で私はたくさんの墓を訪ね、墓を見ながらランニングした。沖縄の墓は元々住まいの近くに作られ、葬られた後も先祖たちは子孫の繁栄を見守って来たのだ。

    与那国島海中遺跡

 さて「お口直し」に珍しい写真を載せたいと思う。これは日本最西端の島である与那国島の南側の海中にある「遺跡」。地元のダイバーが発見し、琉球大学理学部の木村政昭教授(当時)らが、調査した結果遺跡と判明したもの。階段や溝、道路や門を建てるため開けた穴、亀の形の石などがあり、自然の造形ではないとの結論に至った。それは壮大かつ見事で、私は何度か映像で見たことがある。

       遺跡図   

 これは海中遺跡の図。船上から海底に向けてレーザー照射して得た映像を図化する工程も見たことがあった。さてなぜ海中にこのような物があるかだが、南西諸島は古来沈降と隆起を繰り返して来た。なおこの「海中遺跡」に続く陸の遺跡の存在もその後の調査で分かっている。その場所が高かったため海に沈まなかったのだろう。このように沖縄は不思議に満ち溢れた島だ。

  

 何年か前、台湾から与那国島まで日本人が舟で渡る実験をした。初回の「草舟」は浸水して失敗。2回目の「竹の筏(いかだ)」は黒潮に流されて失敗。3回目の丸木舟は縄文時代の石器で台湾の木を切り倒し、中を刳り抜き男女5人で漕ぎ、黒潮に流されて時間を要したものの、無事与那国島に到着した。確か国立科学博物館の実験だったはず。私は台湾の東海岸を旅し、現地の原住民の踊りを観たこともある。今となってはとても良い思い出だ。

         

 大陸と南西諸島が地続きだった時があった。その時は人も動物も歩いてやって来た。イリオモテヤマネコもアマミノクロウサギもそうだ。だが沈降と隆起を何度も繰り返した時、島が離れて人は丸木舟でしか渡れなくなった。標高が200m以下の島は海に沈み、ハブが死んだ。また巨大な海底火山の爆発で、数千年間も人が往来出来なかった時期もある。

    

 人は南や西から沖縄へやって来ただけでなく、北からもやって来た。その代表が縄文人だ。彼らは南の島々に縄文土器や北方の神話を伝えた。南の島々からは装身具の材料となる貝が日本列島(北海道まで)へ伝えられた。こんな貧弱な丸木舟でよくも遠方まで出かけたものだ。私は男鹿半島の「なまはげ館」で、今なお使われている丸木舟を見たことがある。人とは凄いものだ。縄文土器が南米まで伝えられたとの説もあるが、真偽のほどは定かではない。

 さて、私がこのシリーズのために用意した材料はここまで。次回以降をどうするかは未定だが、読者が退屈でなければ、もうちょっと続ける手もあるがさてどうするか。ともあれご来訪と愛読を感謝したい。





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Last updated  2021.12.16 07:40:48
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■コメント

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Re:沖縄の話をしよう(16)(12/16)   恵美子777 さん
これからも期待しています。

無言の読者もいます。 (2021.12.16 02:36:51)

Re[1]:沖縄の話をしよう(16)(12/16)   マックス爺 さん
恵美子777さんへ

お早うございます。
深夜のご来訪とコメントありがとうございます。

このような学術的な内容の文章は1回分を書くのに
かなりの時間を要するのです。
また写真を探して整理し、文章とどう組み合わせるか
でもかなり苦労し、疲れるのですよ。(;^_^A


いつもご愛読ありがとうございます。😊 (2021.12.16 08:01:49)

Re:沖縄の話をしよう(16)(12/16)   あみ3008 さん
海中遺跡なんてあるんですね。
まだまだ勉強が足りませんね。 (2021.12.16 22:01:04)

Re[1]:沖縄の話をしよう(16)(12/16)   マックス爺 さん
あみ3008さんへ

お早うございます。
ご来訪とコメントありがとうございます。
とても嬉しく拝見しています。

ハハハ。あみさんの勉強不足じゃなくて、
私が色々知ってるだけです。
普通の人は、多分知る機会すらない
でしょうから。(^_-)-☆
(2021.12.17 07:14:16)

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