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マックス爺のエッセイ風日記

2021.12.30
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~絵に描かれた琉球王朝時代の沖縄~

 最終回の今回は2冊の図録に掲載された琉球王朝時代の沖縄の姿を紹介します。

<「琉球文化秘宝展」図録から>

  

 1) 那覇港の図   6双の屏風仕立てになっています。

  

 2-1) 琉球人登城図部分 その1

 琉球王の使者が江戸城に登城する姿です。「正使美里王子」の名が見えます。美里は「間切」(領地の名前で、現在の沖縄市付近です)。

  

 2-2) 同上の一部

 正使「豊見城王子」の名が見えます。豊見城は現在の豊見城市の領主であることを示します。1-1)合わせて正使が2人いるのは、1人は慶賀使(新将軍の就位を祝う)ための使いであり、もう1人の謝恩使(琉球王の交代許可を感謝する)ための使いだったのでしょう。

  

 2-3) 同上の一部

 琉球人をことさら異国風に描くのは、幕府の力が遠く異国にまで及んでいることを観衆に示すためで、中には喇叭(ラッパ)を吹いている人もいます。武士の姿をしているのは、琉球を実質支配していた薩摩の島津藩のお付きの衆でしょう。

  

 2-4) 同上の一部

 「紫童子」(?として)2人の名前が見えます。右(前)の人物は小禄里之子(おろくさとぬし)と読めます。小禄は現在の那覇市の南部にあり、王朝時代には「間切」が置かれていました。左(後)の人物も同じ役職の里之子(下級武士)ですが、姓は不鮮明です。

  

 3) 琉球王国冊封之図

 中国(明、清)からは数年に一度、沖縄に使いがやって来ました。琉球王が中国の支配下にあることを追認する儀式です。この使いが来航する際は、琉球を実質支配していた島津藩の役人は那覇、首里から離れた農村に身を潜めていました。だから中国は琉球が日本と中国に両属していた「事実」を知らないままでした。琉球王朝は沖縄を広い土地だと思わせるため、わざわざ遠回りをして首里城へ案内したのです。途中の休憩場所が現在も残る「末吉宮」だったと聞きます。王朝は冊封使を盛大にもてなしました。

  

 4) 婚礼図

 かなり格式の高い婚礼の行列です。女性は駕籠に乗っています。高位の貴族の夫人なのでしょう。

  

 5) 物売りの図 左側の女性は薪(たきぎ)を売り、右側の女性は豚肉を売っているようです。

         

 6) 風俗図  左側の女性は漁村である糸満の魚売りです。漁師である夫から仕入れた魚を売った収入は自分のものとなります。昔から糸満女性は自立していたのです。右側は「焼酎持」と読めます。

  

 7) 市場で物売りをする女性の図

 以下は「沖縄の城ものがたり」から借用したペリー来航時の絵です。

         

 幕末にアメリカのペリー提督が浦賀に来航しました。その前に彼は当時の琉球王国を訪れ、あわよくば奪おうと考えていたのです。絵は提督が連れて来た絵師が描いたものです。以下は当時の琉球王国の風景です。

  

   樹下で休む士族(さむれー)

              

               冠(はちまき)を被った高官の貴族

  

    那覇港周辺から首里城方面を眺めた風景でしょうか。

                

                  高貴な士族の肖像

  
               

        どちらも首里城内かその周辺と思われます。

  

 これで本編「沖縄の話をしよう」(全16回)とその追補版「おきなわ補遺編」(全6回)を終了します。まだまだ沖縄について書きたいことや紹介したいことがあるのですが、ここまでとします。長期間にわたるご愛読を心から感謝し御礼申し上げます。ではでは。 亭主敬白 バイバイぽっ






Last updated  2021.12.30 21:22:54
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