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マックス爺のエッセイ風日記

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心のふるさと「沖縄」

2022.04.13
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~尽きない思い出の島々~

    「ちむどんどん」のタイトル

 NHKの朝どら「ちむどんどん」が始まった。主な舞台が沖縄で、食べ物やご馳走にまつわる話のようだ。これは沖縄の本土復帰50年を記念しての番組。今から50年前と言えば1972年(昭和47年)で、私は3番目の職場である東京に勤務していた。そこの外郭団体に日本最西端の与那国島出身の2人の女性がいた。でも航空券が高くて、親戚の葬式に帰れないと彼女が嘆いていたのを覚えている。

                     

 話の舞台は沖縄本島の北部にある通称ヤンバルの山原村と言う設定になっている。多分西海岸のはず。東海岸は地形が険しくて不便なので。そして話は昭和39年(1964年)に東京から転校生がやって来ることから始まる。まだ本土復帰前だから国道もなく、米軍に合わせた右側通行。支払いはドル。村には共同売店が1軒あるだけ。その当時は那覇とどんな手段で往復したのだろう。当時長距離バスはないはず。  

  

 貧しい村では、皆が助け合って生きるしかない。腹を空かした子供らが食べるのは、島豆腐にサツマイモ。それが当たり前の暮らしだった。だが自然が豊かで人情も豊か。ちらっとシークワーサーの木が写った。柚子に似てるが完熟すると甘い。皮が薄くて簡単に剥ける。とても小さくて、ミカンの原型のような果物。私はシークワーサージュースが大好きで、島を走った時に家人から直接もらったこともある。

                    

 母親役の仲間由紀恵はウチナンチュ(沖縄人)で、ドラマでは那覇からこの村にやって来たとの設定になっている。恐らく戦災に遭いヤンバルに来たのだろう。「糸芭蕉」が籠に入っていたので、大宜味村(おおぎみそん)の喜如嘉(きじょか)集落をモデルにしたのかも。私はその集落内を走ったこともある。当然現地でのロケもしたろうが、ドラマのため精巧な沖縄の家屋をセットで造ったとも聞いた。

    「ちゅらさん」の一場面

 沖縄を舞台にした朝ドラの第1作目は「ちゅらさん」。沖縄の方言で「清らさ」が訛ったもの。美しいや清純の意味。ヒロインの「えみー」を演じたのが一般公募で選ばれた沖縄出身の国仲涼子。実に初々しくて可愛かった。放送は平成12年(2001年)で私は仙台の自宅から職場のある山形に長距離通勤していた。沖縄勤務の経験があったため、とても懐かしい場面ばかりだった。

         「民宿」になった民家  

 家族は父がマチャアキでウチナーグチ(沖縄弁)が下手くそ。逆に上手だった母親役の田中好子はその後若くして死んだ。古波蔵(こはぐら)家は八重山の小浜島出身と言う設定だが、私は石垣島と西表島の中間にあるその島へも旅し、かつ走った。やがて那覇市首里に出て来て民宿を始めるとの話。オバー役の平良とみが懐かしい。えみーの純愛と小浜島での最後のシーンが忘れられない。

   

 すっかり忘れていたが沖縄が舞台の朝ドラの第2弾が「愛と純」。主演の夏菜のことは良く覚えている。宮古島のホテルの娘で、修行のため大阪のホテルに勤務する話。意地悪なフロント係の女性役の黒木華よりもフロント主任役の吉田羊の印象が強烈。私が彼女の名を知った初めての作品だった。しかしあのドラマの中での宮古島の風景を思い出せない。

   

 写真左は宮古島の最西端の「池間大橋」で、前方に見えるのが池間島。まだ橋がなかった大昔、引き潮の時は「竹馬」で行き来していた由。右は島の最東端の東平安名崎。私は100kmの「宮古島わいどーマラソン」でどちらも走った。島を一周するコースなのだ。また出張で宮古島に行った際も島の中を走ったので、むしろその時の風景が心に残っている。

 沖縄には3年間勤務し、転勤後も良く沖縄へ行った。飛行機には往復で60回以上乗っただろう。機内からエメラルドグリーンの海が見え出すと、心がときめいたものだ。「ちむどんどん」=ドキドキしながら、今回の朝ドラを楽しみたいと思う。






Last updated  2022.04.13 09:51:22
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2021.12.30
~絵に描かれた琉球王朝時代の沖縄~

 最終回の今回は2冊の図録に掲載された琉球王朝時代の沖縄の姿を紹介します。

<「琉球文化秘宝展」図録から>

  

 1) 那覇港の図   6双の屏風仕立てになっています。

  

 2-1) 琉球人登城図部分 その1

 琉球王の使者が江戸城に登城する姿です。「正使美里王子」の名が見えます。美里は「間切」(領地の名前で、現在の沖縄市付近です)。

  

 2-2) 同上の一部

 正使「豊見城王子」の名が見えます。豊見城は現在の豊見城市の領主であることを示します。1-1)合わせて正使が2人いるのは、1人は慶賀使(新将軍の就位を祝う)ための使いであり、もう1人の謝恩使(琉球王の交代許可を感謝する)ための使いだったのでしょう。

  

 2-3) 同上の一部

 琉球人をことさら異国風に描くのは、幕府の力が遠く異国にまで及んでいることを観衆に示すためで、中には喇叭(ラッパ)を吹いている人もいます。武士の姿をしているのは、琉球を実質支配していた薩摩の島津藩のお付きの衆でしょう。

  

 2-4) 同上の一部

 「紫童子」(?として)2人の名前が見えます。右(前)の人物は小禄里之子(おろくさとぬし)と読めます。小禄は現在の那覇市の南部にあり、王朝時代には「間切」が置かれていました。左(後)の人物も同じ役職の里之子(下級武士)ですが、姓は不鮮明です。

  

 3) 琉球王国冊封之図

 中国(明、清)からは数年に一度、沖縄に使いがやって来ました。琉球王が中国の支配下にあることを追認する儀式です。この使いが来航する際は、琉球を実質支配していた島津藩の役人は那覇、首里から離れた農村に身を潜めていました。だから中国は琉球が日本と中国に両属していた「事実」を知らないままでした。琉球王朝は沖縄を広い土地だと思わせるため、わざわざ遠回りをして首里城へ案内したのです。途中の休憩場所が現在も残る「末吉宮」だったと聞きます。王朝は冊封使を盛大にもてなしました。

  

 4) 婚礼図

 かなり格式の高い婚礼の行列です。女性は駕籠に乗っています。高位の貴族の夫人なのでしょう。

  

 5) 物売りの図 左側の女性は薪(たきぎ)を売り、右側の女性は豚肉を売っているようです。

         

 6) 風俗図  左側の女性は漁村である糸満の魚売りです。漁師である夫から仕入れた魚を売った収入は自分のものとなります。昔から糸満女性は自立していたのです。右側は「焼酎持」と読めます。

  

 7) 市場で物売りをする女性の図

 以下は「沖縄の城ものがたり」から借用したペリー来航時の絵です。

         

 幕末にアメリカのペリー提督が浦賀に来航しました。その前に彼は当時の琉球王国を訪れ、あわよくば奪おうと考えていたのです。絵は提督が連れて来た絵師が描いたものです。以下は当時の琉球王国の風景です。

  

   樹下で休む士族(さむれー)

              

               冠(はちまき)を被った高官の貴族

  

    那覇港周辺から首里城方面を眺めた風景でしょうか。

                

                  高貴な士族の肖像

  
               

        どちらも首里城内かその周辺と思われます。

  

 これで本編「沖縄の話をしよう」(全16回)とその追補版「おきなわ補遺編」(全6回)を終了します。まだまだ沖縄について書きたいことや紹介したいことがあるのですが、ここまでとします。長期間にわたるご愛読を心から感謝し御礼申し上げます。ではでは。 亭主敬白 バイバイぽっ






Last updated  2021.12.30 21:22:54
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2021.12.28
~焼物のことなど~

      

 「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録をもとに紹介しています。ただし、読者の理解を助けるために、適宜<参考資料>挿入しています。

  

 1)緑釉花瓶(壺屋焼)

  

 2) 白地緑釉差しカラカラ(壺屋焼)   

   カラカラとは泡盛用の「お銚子」ですが、温めません。

  

 3) 緑飴釉筒描抱瓶(だちびん) 壺屋焼

 だちびんとはかつて沖縄の農民が腰に下げていた水筒です。そのため腰に密着するよう、内側が湾曲しています。また、腰にぶら下げられるよう、麻縄で括り付けるための突起があります。

  

 4) 素焼張付文御殿型逗子甕 (壺屋焼)

 御殿は「うどん」と発音します。逗子甕は「じゅしがみー」と発音し、風葬しかつ洗骨を終えた遺骨を収容するものです。絵柄は粘土を張り付けてありますが、「六地蔵」だと思われます。仏教の影響が感じられるので、遺骨は火葬されたのかも知れません。

<参考資料>

  

 那覇市の「国際通り」と「ひめゆり通り」の間に「壺屋やちむん通り」があります。やちむんは「焼物」の現地語です。かつてはこの場所の窯で実際に焼いていました。私が沖縄に赴任した平成初期のころもまだ焼いていました。その後は材料となる粘土の入手や作業スペースの確保、大型の窯の必要性などから、集団で読谷村(よみたんそん)に移転したと聞いています。

    

 これは沖縄陶芸界で唯一人間国宝に指定された金城次郎氏(1912ー2004年)の作品「線彫魚紋大皿」(1967年制作)です。金城氏が魚紋を使い始めたことで、魚のモチーフはその後壺屋焼の特徴にもなりました。

        

 比較的最近の「やちむん通り」の様子です。観光客などを相手に焼物を売っていますが、ここはお店だけで、読谷村の窯場から作品を運んで来ているのでしょう。私が知ってる頃とは雰囲気がすっかり変わり、道路が広くて立派になっています。

  

 5) 潤漆樹下人物七宝繋箔絵丸櫃

 中国風の人物が描かれた漆器製の丸櫃(まるびつ)。おひつは本来炊いたご飯を入れる容器の名前ですが、装飾や大きさからみると、「物入れ」のように思えます。

  

 6) 朱漆定紋入冠入れ

 沖縄には元々家紋はありません。琉球王朝時代に日本との交流から真似て新たに作ったのです。因みに琉球第二王朝の王である尚(しょう)家の家紋は「左三つ巴」です。

 <参考>

  

 琉球王朝時代、高位の人物は冠を被るのが習わしでした。せいしきには「はちまき」と言いますが、日本の鉢巻きと異なり帽子のような形をしています。ターバンからの変形との説があります。王族、貴族、士族の身分ごとに「はちまき」の色と模様が定められていました。それだけ大切な物であるため、「専用の容器」が必要だったのでしょう。

   

 7) 進貢船(模型=民芸品)

 しんこうせんは琉球王国から中国(明、清)へ進貢(貿易の形を取った従属)や外国(日本、朝鮮、東南アジア諸国)との貿易に用いられました。当時の琉球では外洋航海用の大型船は建造出来ず、中国が建造して与え、中国人通訳までも付けました。船の舳先の「眼」は魔除けで、現在も沖縄県の「県章」(右上)になっています。

  

 8) ハーリー(模型=民芸品)

 ハーリーは中国から伝わった習俗で、把竜船(はりゅうせん)が沖縄でハーリーと変化したもの。毎年初夏にこのボートを集団で漕ぐ競漕が祭りとして定着しています。因みに「鎖国当時」に中国の窓口だった長崎の「ペーロン」も全く同様で、長崎の方が中国の発音に近いと思われます。

  

 9) 旗頭 (模型=民芸品)

 「はたがしら」は言ってみれば町内会の「目印」みたいなもので。実物はかなりの大きさがあります。例えば那覇市の伝統行事である「大綱引き」の際には、この旗頭が登場します。昔は地区ごとに分かれて綱を引き合ったのでしょうが、交通の障害となるため今では「東西」の2つに分かれ、観光客も入って「子綱」を引き合う勇壮なお祭りです。那覇のほか、与那原町にも大綱引きが残っています。

  

 10) ハーチブラー

  民芸品のお面のようですが、残念ながら説明はありません。

  

 11) チリクブサー

 これも民芸品のようですが説明がありません。形から見て内地の「起き上がりこぼし(小法師)のようなものかと推察しています。倒してもまた元に戻る玩具です。クブサーが「小法師」に相当します。音も良く似てるので、日本のものが伝わったのでしょう。なんだかとても愉快です。ダブルハートスマイル

  

 12) わら算

 かつて八重山地方で文字が読めない人のために工夫された納税の表示法です。編んだわらの形やわらの数で、どんな物をどれくらい納めるよう指示したものです。そういえば「インカ」にも似たような「キープ」と言う表示法があったはずです。

   

 ほらね。良く似てるでしょ。時代や場所は違っても、人間が考えることは一緒なんですねえ。なんだかとっても不思議です。ただし、こちらはわらじゃなくて何かの繊維のようですが。ちょきぽっ






Last updated  2021.12.28 12:31:33
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2021.12.26
~沖縄の染織~

               

 那覇市市制70周年記念企画「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録から写真を借用しました。

  

 13) 白地霞に松山枝垂桜雁文様衣装 <紅型(びんがた)日本民芸館所蔵:以下同じ>

  

 14) 白地牡丹桐鳳凰文様衣装

  

 15) 灰色地霰文に梅花散らし文様衣装の柄

  

 16) 白地菊桐雪輪文様衣装

    

  <参考> これは紅型(びんがた)の型紙です。相当細かい柄ですが、型紙の「隙間」から様々な原料から得た顔料で色を塗ります。大変な手間がかかるため高級品です。沖縄県立芸術大学には、染織の専門コースもあります。

  

 17) 紺地牡丹文様風呂敷   紺で染めたもの

  

 18) 浅地鶴に渦波桜散らし文様  個人蔵

 沖縄の歌「芭蕉布」の一節に「浅地紺地(あさぢくんじ)のわした島うちなー」の歌詞があります。紺地は17、26)が相当します。

  

 26) 紺地ティジマ衣装  これも「紺地」なんですねえ。

  
      
        

 31) 芭蕉格子絣衣装(上)とその細部(下) 有名な「芭蕉布」がこれです。

 <参考> 芭蕉布の原料となる糸芭蕉の栽培から糸作りまで

  
 
 a 芭蕉布の原料となる糸芭蕉です。台風に負けないよう密集して植えます。かつては沖縄本島のいたるところで栽培され、芭蕉布は庶民の着物の素材でした。でも芭蕉布を作るには相当手間がかかるため、現在は沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が最大の生産地です。私も沖縄本島単独一周ランで走った時に、その集落を通りました。とても静かで清潔な集落でしたよ。

       

 b)成長した糸芭蕉の幹を切り、茎の中から繊維を取り出します。

  

 c) 取り出した繊維を乾燥させる作業です。

  

 d) 糸芭蕉の繊維はとても弱いので、慎重に取り扱います。

       

 e) 乾燥した糸をより合わせる作業です。1本では弱いため何本かの糸をより合わせます。さらにその糸を使って織る作業があります。このように手間がかかり、しかも織り手の高齢化が進んだため、芭蕉布は高級品になりました。軽くて涼しい芭蕉布は沖縄人にとっては普段着でしたが、今では人間国宝が何とか伝統を守っていると聞きます。






Last updated  2021.12.26 00:00:13
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2021.12.23
~「琉球文化秘宝展」から その2~

               

 今回は那覇市制70周年記念企画(平成3年=1989年)として沖縄三越で開催された同展の図録から、沖縄の至宝をいくつか紹介します。

  

 1) 朱漆鳳凰雲点斜格子沈金碗<愛知県 徳川美術館所蔵品>

 以下の美術品は琉球王朝から江戸幕府に献上された品が、将軍から尾張徳川家に下賜され現在徳川美術館に所蔵されているのを今回借用して特別に展示した。

   

  2) 朱漆花鳥七宝繋密陀絵沈金足付盆 <徳川美術館所蔵品>

  

  3) 朱漆草花箔絵丸盆 <徳川美術館所蔵品>

   

 (4,5) 黒漆鹿山水玉石嵌堆錦螺鈿硯屏・裏表 (徳川美術館所蔵品)

  

 6) 黒漆梅七宝繋箔絵沈金三尺丸膳 (徳川美術館所蔵品)

  

  7) 漆塗鶯梅箔絵三足丸膳 (徳川美術館所蔵品)

  

  8) 朱漆山水楼閣人物密陀絵箔絵台子  <宮内庁所蔵>

 琉球王朝から徳川幕府に献上されて江戸城にあった品が、そのまま皇室所蔵となったのだろう。



  9) 

 10) 

 11)  

  9)10)と共に 白密陀山水楼閣人物漆絵箔絵紙料箱・硯箱一式 <宮内庁所蔵>

 多分沖縄では漆は産しないはずです。それに極端に乾燥を嫌う性質があるので、素材の取り扱いには相当の注意を必要としたことでしょう。中国でも漆は産しますが、日本の漆とは性質が異なると聞いたことがあります。このため漆の原料は日本からもたらされたと思われます。それにしても琉球王朝の漆工芸のなんと見事なことでしょう。琉球漆器は現在も沖縄の重要な工芸品です。なお、陶器を英語で「china」と呼びますが、漆の英語名は「japan」です。

 図録の文字が小さいのと、画像と名称のページが離れてるため、照合に苦労しました。泣き笑い<続く>






Last updated  2021.12.23 07:31:16
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2021.12.20
~手持ちの資料から~

              

 今日は手持ちの資料から幾つかの画像を載せたいと思う。最初は平成3年(1991年)10月に沖縄三越で開催された「明治の沖縄~鳥居龍蔵博士撮影写真展~」のパンフレット(上)から借用した。当時私は沖縄に赴任した3年目で、高校3年の長男と2人で頑張っていた時期。パンフレットによれば展示された写真は66点だが、そのうちパンフレットに載っているのは4点のみだ。

  

 鳥居龍蔵博士(1870-1953)は東京帝国大学で人類学を学び、アジア各地で調査する傍ら東京帝大などで教鞭を執った。この展示は博士が明治29(1896年)と明治37(1904年)の2度に亘って沖縄を調査した際に撮影されたもの。その時の収集品は後に国立民族学博物館に移管された。

 不思議な縁だが私は沖縄赴任の直前に勤務した徳島県鳴門市で「鳥居龍蔵記念館」(博物館)を訪れたことがあり、同氏が日本の人類学や考古学の先達であることを知っていた。また収集品が移管された国立民族学博物館(大阪府)にもこの数年後に勤務することとなり、その縁で沖縄へも何度か訪れたことがある。素人の私がたまたま日本の古代史や考古学や文化人類学(民族学)に強い関心を持っていたのも何かの縁だと思い感謝している。

    

 タイトルには「琉装の老人」とあるが、風貌からするとかつての士族(さむれー)と思われる。「琉球処分」で「沖縄県」となった後も、沖縄に対しては内地より緩い税制が適用された。それは「禄」を失ったかつての貴族や士族の不満を和らげるため。だが食えなくなった多くの士族たちは首里から地方へ移り住み、慣れない農業などで食い延びたと聞く。この老人たちには一種の威厳がまだ残っている。

          

 タイトルには「市場(マチ)の女性たち(首里近辺)」とある。市場のことを現地の言葉でマチグァーと言う。グァーは接尾語で東北弁の「こ」に相当するイタコ(死者の霊を呼ぶ女性)の「コ」や嫁っこの「こ」と同義。因みにイタコに相当する琉球語は「ゆたぐぁー」。このうち「ぐぁー」が東北弁の「こ」に当たる。意味も言葉の響きも同一だと私は直感し、琉球語は古代の日本語からの転化と判断した。イタコは青森の恐山で健在だし、ゆたぐぁ―も現代沖縄でまだ生き続けている。

 さて首里はかつての王都で人口も多く、明治後期も賑わって商売が成立したのだろう。首里近辺にも農村があり、新鮮な野菜が届けられた。また鮮魚のことを現地語で「イマユー」と言う。イマは「今」で獲れたての意味。ユーは魚(うお)の変化。日本語の古語でも「イユ」や「イオ」と言ったようだ。写真には首里崎山町周辺の雰囲気が残っているように感じる。

  

 タイトルには「路上の女三代」とある。祖母は草履を履いているが、母と子は裸足のままで足は黒い。母親の懐には赤子がいる。着衣は琉球絣(かすり)のようで、貧しくなく、道路は広くて清潔だ。英国人女性イザベラ・バードは当時の日本、朝鮮、中国(清)を何度か旅しているが、朝鮮の不潔さには音を上げている。大便を道路に放り、それを犬が食べていた。その不潔な習俗は日本が併合するまで続いた。

                 

 2つ目の資料は「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(那覇市、琉球放送、沖縄三越主催)で、サブタイトルは「那覇市制70周年記念企画」となっており、冒頭の「写真展」と同時に沖縄三越で開催された。これはその際に購入した図録の表紙で、同展では各種の文化財157点が展示されている。このシリーズではそのうちの一部を紹介することとしたい。

  

 朱漆花鳥七宝繁陀絵沈金御供飯一式。愛知の徳川美術館所蔵物を借用しての特別展示。琉球王朝時代、王国からの使者が十数回江戸城へ登城した。新将軍が就任したさいの慶賀使や琉球王が交代した際の謝恩使だが、その際の献上品の一部が将軍家から尾張藩主に下賜されたものが「徳川美術館」に保存されている。見事な琉球漆器で、地上戦があった沖縄にはこれほどのものは残っていないのだろう。

 今回はこの一品だけの紹介に止めたい。それにしても30年前に購入した図録を大事に保管し、こうして活用出来たことに感謝し、不思議な出会を喜びたい。

                       






Last updated  2021.12.20 07:51:36
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2021.12.18
~詩画集から借りた版画~

           

 自分が持っている本から版画を借りようと思う。本の名は「詩画集 日本が見える」。東京の書店から1983年に出版されている。今から38年も前だ。その頃私は筑波にいて、沖縄とは出会っていない。筑波から5番目の職場に転勤し、沖縄に赴任したのはその後。本は沖縄勤務時に職場で現物を見、書店に発注したもの。今回書架から取り出したのは、私が沖縄で書いた詩と組み合わるためだった。

    オキナワを返せ

 ところが絵が激し過ぎて私の詩とは雰囲気が合わない。詩人も画家も共に沖縄人(うちなんちゅ)で、沖縄は日本に復帰してまだ日が浅いころ。彼らには日本人(やまとんちゅ)に対する恨みつらみが大きかったはずだ。島津藩による琉球王国への侵攻、琉球処分による沖縄県としての従属、激しかった沖縄戦と戦後のアメリカ軍政府の発足、その後の民政府の誕生と日本への復帰。

      昔の物売り     

 貧しかった沖縄は明治以降、大勢の人が内地や外国に移民した。内地では差別に苦しみ、外国では慣れない環境と風習に苦労したことだろう。だからウチナンチュの熱い思いがこの詩画集にも満ち溢れてる。詩人の名は新川明、そして画家(版画家)の名前は儀間比呂志。本にはページも振られておらず、版画のタイトルも一致しない。そのため、詩は載せずに絵(版画)のみ。それで作者がこの本を通じて訴えたかった沖縄の精神を感じてもらえたら嬉しい。今回版画を借用したことに感謝したい。なお絵のタイトルは読者の理解のために私が適当につけたものであることをお断りします。


    三線を弾く男

 沖縄では三線(さんしん)を弾きながら歌います。民謡はウチナンチュの命であり、最大の慰めです。

            

 かつては頭に載せたザルに物を入れて、ヤマモモの実や魚などを売っていました。

  

 紅型(びんがた)の衣装を着た女性が琉球舞踊を踊っています。周囲を取り囲んでいるのは、恐らく猛毒のヘビのハブだと思われます。

               

 神行事をする久高島のノロ(祝女)のようです。最大の神行事であるイザイホウは無くなりましたが、その他の神行事はきっと今でも続いていることでしょう。

  

 踊っているのか、それとも跪(ひざまづ)いて祈っているのか。

             

 これは何だか良く分かりません。多分島に自生する植物を図案化したものと思われます。

    

     これも神行事をするノロみたいです。

        

  踊り手が手に持っているのは華やかな色の「花笠」です。右上に見える「龍柱」(りゅうちゅう)は、進貢した中国から贈られて首里城正殿の正面入り口を飾っていました。

                  

 琉球王朝時代は税の取り立てが厳しく、百姓は働きづめでした。飢饉の時はソテツの実まで食べ、その毒で死んだ人も多かったようです。食べるためには粉にして熱を加え、無毒化する必要があったのです。農民が飢えなくなったのは、中国からサツマイモが伝わって以降です。サトウキビも中国から伝わり、良い換金作物になりました。島津藩は利益を上げるためにサトウキビ生産を奨励し、百姓が飢える原因にもなりました。

  

 浜で魚を仕分けする女性。右奥に見える小舟がサバニと呼ばれる小型の漁船で、男たちは集団で漁労に励みました。かつて糸満(いとまん=漁村)では女が魚を買い、自分で売り歩いて得た収入を自分のものにしていたそうです。糸満の女性が自分の財布を持っていたことは、沖縄では有名な話です。

               

 力強い表情の女性。背後には赤瓦屋根の家が見えます。那覇か首里近辺の女性でしょうか。

  

 幼子を抱く女性。後ろに見える植物がソテツで、琉球語では「クバ」と言います。クバが訛ると「フボー」と変化します。琉球語には日本の古語が色濃く残り、「pa」や「fa」で始まる言葉もあります。N音とM音の入れ替わりもあり、新原(にーばる)が「みーばる」に変わります。また5母音が3母音に変化し、今もその影響が残っています。オがウに、エがイに置き換わるのが特徴です。

                 

 棒術で戦ってる様子でしょうか。琉球王朝が成立すると、民衆は刀狩りで武器を奪われます。そのため棒など手ごろに入手出来るものが武器に代わりました。また空手の原型である武闘も沖縄で発祥し、今でもたくさんの流派があります。沖縄では「手」(てぃー)と呼ばれています。文字通り手だけが武器と言う訳です。

   

 良く分かりませんが大きな龍を棒で持ち上げているようです。ひょっとして中国から伝わった「龍踊り」(じゃおどり)でしょうか。長崎などでは今でも祭りで見られます。

                

 人物の手前には「ばら線」が見えます。基地返還運動を表現したのでしょうか。「沖縄は奪われっ放し」それがウチナンチュの偽らざる心情なのでしょう。でも決してそうではないのです。海洋民族である縄文人、奄美や琉球人は昔から丸木舟で往来し、言葉も文化もイネを始めとする穀物も島伝いに伝わりました。現代人はそれを忘れただけの話。私は心からそう信じています。






Last updated  2021.12.18 07:43:03
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2021.12.16
~ふしぎの国・沖縄~

  

 水曜日の朝のこと、朝食を済ませた後いつの間にか座椅子にもたれかかったまま眠ってしまったようだ。目が覚めるとTレビに映っていたのは、このシリーズを書くきっかけになったNHKの番組の再放送。新聞で確認すると2時間近い壮大なものだった。そして以前も載せたこの女性が座喜味さんと言う名で、お母さんは大正生まれと判明。それにしては若々しい。琉球舞踊で体を動かしているせいだろう。

         ノロクモイ図   

 座喜味さんはエキストラだったが、こちらは琉球王国時代の本物の祝女(のろ)。以前も書いたように「のろ」は祝詞(のりと)や呪(のろ)うのような日本の古語と同一の起源を持つ言葉で、神に仕える女性。琉球王朝時代は聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする巫女の組織があり、祝女は国家の安寧を祈る重要な位置づけだった。「クモイ」は尊称で、雲居(くもい=雲の上)が語源か。

 のろは白装束に大きな数珠のような装飾品を首にかけている。おそらくその先端には「勾玉」があるはずだ。足は素足で両手の指には「はじち」と呼ばれる刺青を施している。魔物から身を守るためだろう。このように琉球では祭政が分離して、まるで古代の「卑弥呼」を見る思いがする。

    1)風葬墓

 気温と湿度が高く、石灰岩の洞窟が多い沖縄では風葬募は最も理にかなった葬制だったのだと思う。それが割と近年まで続いた。風葬墓は集落の地縁血縁上大切な聖地で、集落以外の者の立ち入りを赦さなかった。上の写真では多数の頭蓋骨と共に壺が幾つか見える。遺体が完全に腐敗すると、数年後に「洗骨」して壺に納めた。洗骨は昔から女性の仕事とされて来た。

    2)亀甲墓

 亀甲墓は琉球王朝が中国の冊封体制に入って以降、福建省の墓制を真似たもの。その特殊な形から「亀甲墓」と呼ばれるが、これは母の胎内を表し、人は死後に母の胎内に還るためとの説がある。これも風葬の一種で、墓室はかなり広く親戚(門中)が共同で使用した。清明の頃(24節季の一つで4月上旬)は親戚全員が墓前に集まり、先祖を供養した。これを沖縄では「うしーみー」と言う。清明の変化。

 墓室内の手前には「しるひらし-=汁減らし)と呼ばれる遺体置き場があり、腐敗が進んだ頃に扉を開けて洗骨した。死後33年以上経った遺骨はその奥にある「池」と呼ばれる部分に積み上げられ、「先祖」となる。門中の男子は「名乗り頭」に同じ漢字を用いるのが慣習だが、それが残るのは貴族や武士(さむれー)の子孫で、現在も守られる一方で新しい名前を自由につけることも増えた。

    3)門中墓

 これは巨大な倉庫型の門中墓(親戚の共同墓)で、特に有名な例が糸満市にある。また親戚の通称に「向姓」とか、「馬姓」とか「毛姓」と言う呼び方がある。王朝時代中国との貿易(冊封)に関わった上級士族は沖縄式の名の他に中国式の名を持った。それが例として挙げたもの。沖縄では血族意識が高く、逆に地方や離島では地縁を重んじる。血族結婚の機会が増えれば、遺伝学上の影響が生じやすい。

    4)破風墓

 現在も風葬の習慣が残るのは、小さな離島だけになった。理由は火葬場がないためだ。現在の沖縄は土地が限られているため、かつてのような大きな墓を造ることは不可能になった。それでも先祖を大切にする沖縄では、近年現代風の「破風墓」が目立つようになった。この大きさでは親戚の遺骨を全て納めることは出来ないが、家の形をした破風墓も結構場所を取り、施工費も高額のはずだ。

    5)厨子甕

 これは厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる遺骨を納める石製の容器。彩色が施されているので、身分の高い人(家)のものだろう。もちろん、このまま屋外に置かれるのではなく、亀甲墓や門中墓に安置されていたのだろう。沖縄勤務の3年間で私はたくさんの墓を訪ね、墓を見ながらランニングした。沖縄の墓は元々住まいの近くに作られ、葬られた後も先祖たちは子孫の繁栄を見守って来たのだ。

    与那国島海中遺跡

 さて「お口直し」に珍しい写真を載せたいと思う。これは日本最西端の島である与那国島の南側の海中にある「遺跡」。地元のダイバーが発見し、琉球大学理学部の木村政昭教授(当時)らが、調査した結果遺跡と判明したもの。階段や溝、道路や門を建てるため開けた穴、亀の形の石などがあり、自然の造形ではないとの結論に至った。それは壮大かつ見事で、私は何度か映像で見たことがある。

       遺跡図   

 これは海中遺跡の図。船上から海底に向けてレーザー照射して得た映像を図化する工程も見たことがあった。さてなぜ海中にこのような物があるかだが、南西諸島は古来沈降と隆起を繰り返して来た。なおこの「海中遺跡」に続く陸の遺跡の存在もその後の調査で分かっている。その場所が高かったため海に沈まなかったのだろう。このように沖縄は不思議に満ち溢れた島だ。

  

 何年か前、台湾から与那国島まで日本人が舟で渡る実験をした。初回の「草舟」は浸水して失敗。2回目の「竹の筏(いかだ)」は黒潮に流されて失敗。3回目の丸木舟は縄文時代の石器で台湾の木を切り倒し、中を刳り抜き男女5人で漕ぎ、黒潮に流されて時間を要したものの、無事与那国島に到着した。確か国立科学博物館の実験だったはず。私は台湾の東海岸を旅し、現地の原住民の踊りを観たこともある。今となってはとても良い思い出だ。

         

 大陸と南西諸島が地続きだった時があった。その時は人も動物も歩いてやって来た。イリオモテヤマネコもアマミノクロウサギもそうだ。だが沈降と隆起を何度も繰り返した時、島が離れて人は丸木舟でしか渡れなくなった。標高が200m以下の島は海に沈み、ハブが死んだ。また巨大な海底火山の爆発で、数千年間も人が往来出来なかった時期もある。

    

 人は南や西から沖縄へやって来ただけでなく、北からもやって来た。その代表が縄文人だ。彼らは南の島々に縄文土器や北方の神話を伝えた。南の島々からは装身具の材料となる貝が日本列島(北海道まで)へ伝えられた。こんな貧弱な丸木舟でよくも遠方まで出かけたものだ。私は男鹿半島の「なまはげ館」で、今なお使われている丸木舟を見たことがある。人とは凄いものだ。縄文土器が南米まで伝えられたとの説もあるが、真偽のほどは定かではない。

 さて、私がこのシリーズのために用意した材料はここまで。次回以降をどうするかは未定だが、読者が退屈でなければ、もうちょっと続ける手もあるがさてどうするか。ともあれご来訪と愛読を感謝したい。






Last updated  2021.12.16 07:40:48
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2021.12.14

~琉球王朝の栄光と苦悩~

    

 第2琉球王朝の王都首里城を描いた絵図である。今も残る「守礼門」(琉球王国は礼儀を守る礼節の邦と中国の皇帝から称賛されたことから「守礼之邦」の扁額を掲げた門)の他、「中山門」(琉球を統一した王朝(中山)であることを示すなど幾つかの門が見える。首里城は全部で10ほどの門がある壮大かつ華美な城で、小高い山(首里森)の頂上にあるため、遠くからでも良く目立った。

          韓国青瓦台  

 なお、城(グスク)、墓、集落など重要なものの位置は、風水思想に基づいて定めた。沖縄では風水を(ふんし)と呼んでいる。京都の都が東山、北山、西山と三方を山に囲まれていること。ソウルの大統領官邸青瓦台が山を背後にしていることも風水思想から来ている。なお古い時代の浦添城や首里城の地下からは、朝鮮式や日本式の屋根瓦が出土し、古くから琉球と人的、文化的交流があったことが分かる。

     
         

 琉球王朝は中国の明や清王朝に進貢していた。それにより中国皇帝の支配下にある「琉球王」として認められた。これが「冊封」(さくほう)体制と呼ばれ、数年に一度「冊封使」が派遣された。上は冊封使の行列。琉球では狭い島国であることを悟られないよう、那覇港に着いた使節を輿に載せ、わざわざ遠回りして首里城に案内し、さらに海が見えない別荘「識名園」で一行をもてなした。

       組踊

 冊封使をもてなすため踊奉行の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が考案したのが「組踊」(くみおどり)で、日本の歌舞伎と琉球舞踊を組み合わせたもの。組踊や琉球舞踊を中心とした沖縄の芸能を上演する施設「国立劇場おきなわ」が浦添市にある。なお名乗頭の「朝」は上流士族の男性のみが許され、日本の「朝臣」の名残との説もある。初代琉球民政府長官の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)も一例。

  王冠    

 さて、琉球王の王冠(左上)はかなり中国風と言え、金や銀、さまざまな宝石、サンゴ、ガラス玉などで飾られている。大きめの簪(かんざし)は琉球髷(まげ)に王冠を留めるためのもの。これに対し、王族や上流士族は城内では「はちまき」(右上)と称する冠を被るのがルールだった。日本の「鉢巻き」とは異なり、いわば「ターバン」の変形と言えるもの。無論階級によって色が異なっていた。

    

 琉球王朝が最盛期のころは貿易船(左上)に乗って、様々な国と交易した。北は日本の博多や堺、中国、フィリピン(当時はルソン)、ベトナム(当時は安南?)、タイ、インドネシアとかなり広範だった。中国とは進貢と言う形での貿易であり、当時の琉球の明、清への進貢品は火薬の原料である硫黄(中国には火山がないため採れない)だった。ただし琉球では外洋を航海する大型船を造る技術がなく、中国が船と通訳を貸し与えた。それが臣下に対する大国の応対だった。

     螺鈿細工   

 琉球の船は福建省の福州港に入るのが規則。他の国も入港先が決まっていた。当時はバーター貿易(物々交換)で、貿易先で仕入れた物品を、他国に持参し別のものと交換した。「わらしべ長者」だが、それでもかなりの利潤を得た。琉球から日本へは螺鈿や中国や東南アジアの陶磁器などが送られ、日本からは蒔絵や太刀を得た。螺鈿(らでん)細工の原料は夜光貝(ヤコウガイ)で、琉球王朝ではその品質管理のために「貝擦(かいすり)奉行」を置いたほどだ。

  

 その琉球王朝の富に目をつけたのが島津藩。徳川幕府に「琉球征伐」を申し出て認可された。島津藩の言い分は次の理由。1)秀吉が命じた朝鮮の役に琉球は参加せず、その分の経費を島津藩が請け負ったが、琉球はその半額しか返済しなかった。2)琉球の船が仙台付近と長崎付近に漂着した際、島津藩が琉球まで送り届けたが、その謝礼をしなかったというもの。まあ「言いがかり」みたいなものだ。

          

 1609年島津藩の軍船300艘が沖縄本島北部の運天港に入り、今帰仁城を攻略陥落させたのを皮切りに、陸路と海路でわずか3日間で首里城を落とした由。島津が最新式の火縄銃を大量に保有していたのに対し、琉球王国ではその100年以上も前に「刀狩り」して武器がなく、残った武器も錆ていたと言う。これ以来琉球は島津藩と中国(明、清)に両属する形になった。

  

無論中国はそのことを知らない。冊封使が琉球に来る際、島津の武士は首里を去って農村部に身を隠していたからだ。そして江戸幕府の将軍の代替わりには慶賀使を、また新琉球王の即位時には謝恩使をことさら異国風に飾り立てて江戸城に登城させた。これがいわゆる「江戸上り」(えどぬぶい)で琉球王朝には大きな負担となった。

         島津家家紋   

 一方島津は琉球王朝が貿易で得た富を奪い、国内で高く売れるサトウキビ生産を琉球に強制した。それで十分「元」は取ったはずだ。また島津藩には「密貿易」の噂が付き物だ。その根拠地や中継基地となったのが、坊津であり東シナ海に浮かぶ甑島(こしきじま)。九州南部には倭寇の基地が多く、かなり古い時代から活動が盛んだったのだろう。それもまた海洋民族である日本と沖縄との宿命なのかも知れない。

    倭寇の図(1)

 倭寇の歴史も前期と後期とでは様相が異なるようだ。初めは室町幕府の許可を得た正式の貿易船だった。安土桃山時代も堺の貿易船は遠く東南アジアまで航海して巨大な富を得た。呂宋(るそん)助左衛門などはその典型だ。江戸時代の初期はオランダなどの要望を受けて、武士を傭兵として東南アジアへ派遣した。シャム(タイ)へ渡った山田長政などはその代表だろう。

  倭寇の図(2)  

 ただし徳川幕府によって外国との貿易が長崎、平戸の両港に制限されると、倭寇として密貿易に変わる。また、倭寇と言えば日本人が主体と思われがちだが、朝鮮や中国の沿岸部の貧困な農民や海洋民が貿易船を襲うこともあったようだ。中国は貿易船をインドやアラビア半島に派遣した時代があった。現在世界各国に存在する華僑はその子孫なのだろう。それが素人である私の認識だ。

   

 中国の皇帝に仕えたイスラム教徒鄭和による7次に亘る航海図。先に述べた「冊封体制」と共に、中国の南シナ海における権益と琉球は中国領の主張の根拠だろうが、それは国際法がない時代の話で、到底肯定出来るものではない。かつての「海のシルクロード」の存在が「一帯一路」の夢を抱かせたのは確か。唐王朝以来、中国の領土拡大野望は続いている。なお「中国」の呼称は近代の辛亥革命以降で、それ以前は各王朝の呼称しかなかった。強いて全土を指すなら「支那」か。理由は秦や清の欧米名チャイナの変化だから。







Last updated  2021.12.14 07:16:16
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2021.12.12
~「貝の道」そして「謎の文字」~

    紅型の袷(びんがたのあわせ)

 何日か前、自分が持っている沖縄関係の本と、古代史関係の本を改めて調べてみた。すると気になる資料がたくさん見つかった。結局収集はしたもののまだ読んでなかったのだ。いわゆる「積ん読」(つんどく)。買っただけで満足し、その後手にしてなかったのだ。その中から数冊選んで手元に置き、そのうちの1冊を読んだらとても面白かった。

 また沖縄の地図帳には、沖縄勤務当時にコピーした資料や新聞の切り抜きが挟まっていた。当時訪ねた離島の聖なる場所に関するもの。改めて読むと、興味深い事実が分かった。本は出版された時点での最新の情報だが、現在の最前線の研究成果はyoutubeで確認出来る。このまま自堕落に過ごしていてはいけない。まだ認識出来るうちに、少しでも本を読もう。そんな風に思った。さて、今回は図録の中から気になった写真を幾つか載せようと思う。年代順でもテーマ別でもなことを先ず断って置きたい。


  

 左は葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一部。勿論北斎が沖縄へ来て描いたわけではない。右は琉球王朝時代に描かれた那覇港。たくさんの船に混じってひと際目立つ船が中央に見える。黒と赤の船で、舳先に「目」のようなマークがある。これが現在も沖縄県のシンボルマークになっている。これは当時の貿易船で、日本、朝鮮、中国(明、清)、東南アジアにまで出かけた。

 北斎が描いたのは那覇港で、右の図の上方に見える部分を参考にしたのだろう。都城のある首里は小高い丘の上にあり、港のある那覇はその外港。当時は小島の多い磯で、小島と小島を橋で繋いで港にし、その後徐々に干拓地を広げた。北斎の描いた船や家は和風で、実際の沖縄の風景ではない。ただ、小島と小島を繋いだ長矼(ちょうこう=堤)は当時の那覇らしさを感じさせる。

           

 これは飛鳥時代の日本と近隣諸国。朝鮮半島では百済と高句麗が滅び、新羅が統一した。九州の南にある多禰(たねは現在の種子島)、西隣の島は現在の屋久島、その南方の阿麻弥(あまみは現在の奄美)で、さらに阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=沖縄の久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が古い文献に残っている。わざわざの朝貢ではなく、難破したための挨拶ではなかったか。

       

 これは北海道伊達市の有珠10遺跡出土の装飾品。貝そのものや貝で作った製品が多いが、大半は南方産のものと思われる。北海道では縄文時代の後「続縄文時代」が長く続き、沖縄では縄文時代の後「貝塚時代」が長かった。それにしても沖縄から北海道まで渡った南方産の貝。丸木舟でリレー式に日本列島の各地に届ける「貝の道」があったと考えられている。

  

 これは韓国慶尚南道出土の貝製腕輪。貝の名はスイジガイ。漢字では「水字貝」と書く。角が出た特徴ある貝は韓国では産しない。それを切って腕輪に仕上げたのは貝の形に呪術性を感じたからだろう。5~6世紀の遺物で、日本の南島産の貝が対馬半島を渡ったものと思われる。

   

 沖縄県具志川市地荒原貝塚出土品で、紀元前2千年~400年。左はイモガイ製の腕輪で、右は貝製の釣り針、鏃(やじり)と穴を開けた装飾品。同じ貝が北海道伊達市の有珠10遺跡出土品にも見える。韓国から出たスイジガイ製の腕輪も具志川市出土のイモガイ製腕輪も、日本の古墳時代には形を真似た青銅製のものに代わる。なお腕輪のことを考古学では「釧」(くしろ)と呼んでいる。

   

 鹿児島県種子島広田遺跡出土の貝符(かいふ)で、紀元前1世紀~紀元2世紀。白くて立派な貝を加工して模様を刻み、穴を開けて紐を通し装身具にしたのだろう。この貝も種子島よりずっと南方産と思われ、同遺跡が貝符の製造地なのか、中継地なのか、それとも使用地なのかは不明だ。

  

 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島神野貝塚出土の深鉢で、紀元前3千年~2千年の縄文後期前半のもの。これと同様の土器が沖縄本島中部の遺跡からも出土している。縄文土器が宮古島からも出土してることからも、南方の島々と日本列島との間に人的、文化的な交流が古くからあったことが分かる。まだ丸木舟しかなかった時代、縄文人は果たしてどんな気持ちで大洋に漕ぎ出したのだろう。

  

 最後に謎めいたものを紹介したい。これは沖縄本島中部の嘉手納(かでな)町や北谷(ちゃたん)町から出土した刻画石版で、制作された時代も制作の意図も判明していない。中にはこれを「ムー大陸」文化の証拠とか世界の各地で見られる「神聖文字」だと主張する人もいる。

   

 ところがである。沖縄本島から何千kmも離れた北海道の小樽市の海岸にある「フゴッペ」洞窟からも、似たようなものが発見されている。絵なのかそれとも特殊な字なのか、また岩に刻まれた時代も不明。沖縄のは石版、小樽のは直接洞窟の岩に刻まれたことが異なる点。世の中には摩訶不思議なこともあるのだ。そしてかつて日本に原人がいた証拠とする「葛生原人」や「明石原人」の骨が、いつの間にか消えて、行方不明になった。今日は不思議な話で終わりとしたい。






Last updated  2021.12.12 00:00:09
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