2008/04/12(土)04:24
別居前の家のこと
別居前に住んでいたマンションは、ムスメを授かる前に、結婚してから住んでいたアパートが更新になって、これから先かかる更新料や手数料、夫の年齢からして住宅ローンが組めるタイムメリットが近づいているよ、と話していた時、夫が広告を見て一目惚れして購入を決めた。
私はまだほとんど貯金がなかったし、次の仕事がまだ決まっていなかったから、購入資金を出せない事でほとんど意見は言えなかったように思う。
新しいカーテンも、リビングの照明も、私の希望は却下され、一緒に買いに行った姑の意見で夫が選んだ。
いつも夫は言っていた。
『ここに住めるのは誰のお陰だと思っているんだ』
『いつ、ここを売って、もっと小さい家に引越してもいいんだぞ』
『まにゃまにゃの家じゃない、パパの家なんだから』
『このマンションが買えたのは、お袋のお陰で俺が金を貯めていたからだ。他の奴だったらこんなに頭金は払えなかったんだぞ』
でも当時、夫が組めるローンは、その"他の奴よりはるかに多い頭金"を払っていても、購入金額に足りなかった。
私が働いていて、共有名義にしたから、購入できるローンを組むことができた。
そんな事は、夫の記憶からはもう消えていた。
あのマンションは、アルコールが飲めなくて割り勘負けするのが嫌で飲み会等の付き合いをしないできた夫と、就職して成人して、一人暮らしを始めてからも、近所に住まわせ、朝夕の食事を食べに実家へ通わせ、職場へ持っていく弁当を渡し、風呂に入らせ、洗濯物を持ってこさせ、洗って渡し続けた姑の"努力の象徴"なのだ。
私の嫁入り道具のタンス類を置いて、パソコンを置いた部屋を、夫はずっと
『リビングの次に一番広い部屋を物置きに使いやがって。自分の部屋にしやがって』
と言っていた。
3LDKのもう一つの和室は、布団を3組敷くから、大きな家具は置けなかった。
寝ている時に地震で倒れてくる怖さを考えても、タンスは置きたくなかったし。
子ども部屋に、と言っていた部屋は、大量の夫の服と、仕事道具と、拾ってきたラジカセやCDプレーヤーと、現場やスポーツクラブからくすねてきた(本人は『いっぱいあるからもらってもいいんだ』と言っていたが)雑誌や文房具やタオルやボディーソープの詰まったペットボトル、ムスメに取られたくない&私が買わないスナック菓子やカップ麺、缶コーヒーで埋まっていた。
玄関脇の、エアコンの室外機置きスペースにも、夫の仕事道具がぎっしり詰め込まれていた。
(マンションの美観を損ねると、管理会社から注意があっても無視)
私とムスメの荷物を運び出した後のマンションには、夫の物が散乱し、あふれていた。
十分な広さ。
台所用品も、家電も、生活に必要な物は私は持っていかなかったから、物が足りなくて暮らせない、だなんてことは、ない。
調停で財産分与を請求するつもりなどないから、あとは登記簿の名義から私の名前を削除すれば、名実共に、夫が言い続けていたとおり夫と姑(亡くなっているけど)の家だ。