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January 10, 2021
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カテゴリ:
バンドマンの死までのドキュメントを見て、
思考停止状態で、(思考するのは苦しくて)
重苦しい気持ちでベッドに入る。

 布団の中で仰向けになりながら、
お気に入りブロガーさんは「感動した、命を大切にしようと思った」
と書いているのに、わたしは同じものを見て
重苦しく辛い気持ちになった、
同じものを見たのに、なんで、感じることが180度ぐらい違うんだろう
と、そのことを考えた。

 母を亡くしてから、死を想うようになった。
死を想うことは=母を想うことだった。
 死の本を読み、「メメントモリ 藤原新也」の写真展に行き、
「おくりびと」を見て感動し、著者の講演会に行きもっと感動し、
葬儀会社で働こうと面接にも行った。(採用されませんでした)
 死に近い現場である、ホスピスや、大学病院でボランティアもした。
医学生に授業で、母の闘病生活とそれを見届けた自分の体験談を話した。
死の近くにいることは、母の近くにいることだった。

 人はこうも簡単に泣けるものなのか、
涙で水たまりが出来るのを知ったのも、このときだった。
 
 宗教の発祥は「人の死への恐怖」からだと聞いた。
古来から、人はそれを問い続け、宗教はある意味、
その答えを人に与えることで、人を救っている。

 宗教を持たないわたしは、今も問い続けている。
答えのない問いだけど、
答えがないから、自分が信じるものを見つければそれでいい。

 バンドマンの死が苦しく怖かったのは、
骸骨のような彼の容姿だろうか、
心は生きたいと叫んでいるのに、あまりに無情なガンに対する
怒りと恐れからだろうか、
 彼の心は彼だけのもので、最期の最期にどんな想いだったのかは
誰にもわからない、
それをこちらが勝手に推測して、哀れだと感じて泣くのは
とてもおこがましい。
なんて失礼なことだろう。
 なのに、わたしの心の反応は、感謝や感動ではなく
恐怖と苦痛だった。

 人は死後、生まれ変わる、天国・極楽に行く、
なんでもかまわない、
このどうしようもなく、行き場のない気持ちは
あぁ、きっと、彼は今頃、天国にいるのだと、そこで幸せに暮らしているのだと
あぁ、彼はいまごろ、私のそばにいてくれているのだと
そう信じることで、遺された人の心は救われる。

 ただ、わたしの場合は、どれもピンとこない。

 焦らなくても、死ぬときわかるから大丈夫、
なんて、悟りきったようにもわりきれない。

 だから、いまでもメメントモリ、

 死を想う
死に救いはありますか、

 死を想う、
死を想うことは、生を想うこと
正反対の言葉なのに、
それは近い、それは混在する。
 どちらもある、メメントモリ

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Last updated  January 10, 2021 03:15:07 PM
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August 14, 2020
カテゴリ:
亡くなった人の魂が戻ってくるとは思ってない。
朝起きると、窓の外は久しぶりの青空!
 ぼんやり雲に覆われた日が続いていたけど
今日は、青空の占有率がかなり高い、そして暑い・・
今日の最高気温の予想は38度・・
コロナと関係なく、こんな日は外に出る気が全くしない、暑すぎる。
 午後1時半、部屋の温度が35度!!びっくり!汗だくだもんね、わたし。
急いで、冷房をつけた、熱中症になってしまう。
 
 お盆、日本の夏の風物詩。
お墓、お線香、浴衣、スイカ、身内の集まり、ごちそう、蚊取線香、花火、
お盆で連想する数々、いいねぇ~、日本の夏。

 お盆にはご先祖様が帰ってくる、
亡くなった人が帰ってくる、というけれど、私はそう思ってない。
お墓は、ただの骨入れだと思ってる。
「千の風」の歌詞のように、魂はそこ(墓)にはない、と思ってる。
墓は、故人を偲ぶ場所の一つ、私にとっては特別な場所じゃない。
 なぜか、と聞かれても、そう思えないから仕方がない。
親からそういう教育を受けてなかったのも原因のひとつかも。
外国の人が、「自国では、お盆と言う風習がないので、お盆に先祖が帰ってくる
という感覚がわからない」と言ってるのを聞いたけど、私もそういう感じ。

 死後のことは、誰にもわからないのだから、それぞれが信じる方法で
信じればいいと思う、人の信じる気持ちを大切にして敬いたい。
(ただし、それを信じてない人に押し付けない限りは)

 私は、死んだら、
魂は肉体が滅びても存在すると思ってる(思いたい)
私が想像する死後の世界は3つ

1.肉体が有機物、原子に還るように、
  人の魂=エネルギーもこの地球に拡散される。自然の一部に溶け込んでいく。
2.肉体をなくした魂が集まる場所があって、そこにしばらくとどまったあと
  また、人として生まれ変わる。
3.地球の三次元とは全く別の世界があり、そこで新しい生活を送る。

 生命の神秘とは別に、人には思考という能力が備わってるから
誰にもわからない死後については、様々な想像が出来る。
 死と言う、恐怖から逃れるために「宗教」は生まれたと聞いたことがある。
そういえば、宗教はどれも死後を語ってる。

 「亡くなった人の魂が戻ってくる」
と思えないのは、それはあまりに人間視点すぎる、と
思えるから。(それでいいのだと思うけど)
 私は、魂はもっと人の想像が及ばないような存在だと思ってる。
死んだとき、あぁ、こうだったんだとびっくり?するような
でもそのびっくりが、恐ろしく苦痛なものでなく、
楽しく、うれしいものであって欲しいと切に願う。

 お盆でなくても、いつも母のことは想ってる。
母の魂が、どこでどうなっていても、
思い出だけは、想像でもなんでもなく、事実としてゆるぎなく、そこにありつづける、

 現世で悪いことをした人や、先祖を敬わない人には、罰がある
という思想は全く信じてません。
それも、また、あまりに人間的発想すぎるし、脅しだと思うから。
 
  でも、私も日本人、今日はお経でもあげよう。

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Last updated  August 14, 2020 03:46:18 PM
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March 18, 2020
カテゴリ:
つーちゃんが臓器提供するのは、嫌だ

 父は献体の申し込みをしている。
父に献体の話を持ち出されたのは、母が亡くなって間もなくしたころ、
「こんな俺でも、最後に何かの役に立ちたいから」と言われた。
献体については、母が亡くなる以前からずっと考えていたそう。
 その時は、父がそうしたいのならと同意し
大学病院に申し込み、同意書に署名した。
 
 あれから、10年、

 父に年に一回は聞いてしまう。(献体はいつでも申し込みを取り消せる)
「本当に献体でいいの、解剖されていいの?怖くないの?」としつこく、
そのたびに
「怖くない、死んでいるんだから、もうそれはただの肉の塊、それでいい」
ってきっぱり言われてしまう、
怖いのは父じゃない、わたし。

 父が埋葬されず、大学病院の霊安室に横たわり、解剖室に運ばれる姿を想像すると
怖くてしかたない、そして、父に対して残酷なことをしている気持になる。

 つーちゃんが、臓器提供に申し込む。
脳死した場合、私は冷静な気持ちで、つーちゃんの臓器が取り出され、運ばれるのを
見送れるのだろうか、

 全く自信がない、
泣き叫び、やめて下さい、と言うかもしれない。
つーちゃんの最後の願いを叶えてあげたいと言う気持ちとの板挟みになって
苦しむかもしれない、

 私は、母が火葬されるとき、
火葬炉の前で、身内の参列者が沈黙して見送る中、
火葬場の人が「これで最後のお別れになります」
と火葬炉の中に棺を入れ、扉を閉めようとしたときに

「すみません・・
母は本当に死んでるんでしょうか?
焼いてしまっても大丈夫なのでしょうか?」
と聞いたのだ。

 しばらくの沈黙のあと、火葬場の人は
「はい」と静かに言った。

 死は死ぬまでは、その人のものなのに
死が訪れたとたん、
死はその人の元を離れ、
死の苦しみは遺族のものとなる、

 愛する人の死は、そのまま まっすぐに遺族の人のもとにやってくる。

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Last updated  March 18, 2020 05:44:30 PM
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April 11, 2013
カテゴリ:
 自分の死と愛する人の死は意味合いが違う。

 私は死後の世界はわからないけれど、
死後も魂が存在し続けるとしたら、
魂はよほど強いこの世に対する未練・執念がない限り
別の次元に移っていくのだと思ってる。
 理由はないけど、なんとなくそう思ってる。

 だから多くの人が
「お母さんはいつもあなたのそばにいますよ」と言ってくれても
そんなことはない、と思ってた。
その人たちが、善意で言ってくれてることはわかるから否定はしなかったけれど
散々母の死を嘆いている私が言うのも変だけど
母には、もうこの世に未練なく、新しい世界で生きてほしいと思っているし
いつまでも、この世に留まっているとしたら
なぜ死ぬことになってしまったのか、とさえ思ってしまう。

 でも、柳田邦男さんの本を読んでいたら
「死」の意味は、本人と遺された人とでは違うのかもしれない
と思うようになった。

 自分の死と愛する人の死は違う。

 私は死んだら別次元に行くのかもしれない
なるべくこの世に未練を残さないように
逝くときは執着を手放していきたい
そう理想としては思ってる。

 けれど、遺された人にとっては

 愛する人が亡くなって、その肉体は消えてしまっても
遺された人が、その人のことを忘れない限り
その人は死んではいない。
どこかに行ったりはしない。

 母は死んだわけじゃなく
遠い外国に移住して、めったに会えなくなっただけだ
と思うとずいぶんと気持ちが癒される。
会えないという現象は同じなのに、
死んでしまったのだと思うのと
遠方に住んでいて会えないだけと思うのでは
全然気持ちが違う。

 母の魂が事実、私の近くにいるかいないかは関係ない
その人が「亡くなった愛する人はいつも自分の近くにいてくれる」
そう思えることが、
その想いが大切なような気がする。

 愛する人を亡くした人が
「いつも私のそばにいて見守ってくれてる気がするんです」
と言うのなら、それはその人にとってまぎれもない真実なのだと思う。

 そのときに「霊魂とは死んだら・・」なんて科学的解釈をしようとするのは
あまりにバカげてる。

 私が母を想うとき、母は存在する・・それでいい。
たとえ生前のように、会話をしたり、ぬくもりを感じることは出来なくても
私が思い出す限り、私の中で「母の死は存在しない」
 
 この発想は私を優しい気持ちにさせる。
そしてこの発想は愛のような暖かさを感じさせる。

 私が思い出す限り、母は存在し続ける。

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Last updated  April 11, 2013 11:58:13 PM
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March 24, 2013
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 一か月ぶりぐらいにせつさんの家に遊びに行った。
せつさんは80歳の一人暮らしの女性だ。
子供も夫も既にこの世にいない。

 母の病気、死がきっかけでせつさんと出会い、
あれから4年、半年ぐらいご無沙汰だった時期があるけれど
だいたい一か月に一度ぐらい、こうしてせつさんと会っている。

 せつさんは、膝を悪くされて、少し歩行困難があるけれど
身の回りのことは、ヘルパーさんや介護保険を上手に使ってる。
日々楽しく生きる、がせつさんの口癖。
 夫も子供も亡くされてるけれど、せつさんには友達がたくさんいる。
孤独な一人暮らしとは程遠い生活。
せつさんを見ていると、孤独というのは、家族がいるいないとは関係ないんだな
と思う。
私もそんなたくさんの友達の一人。

 せつさんの家のリビングは南向き
南側全面が窓になっているので、いつも明るく太陽の光が差して暖かい。
 リビングの外に並んでいるパンジーの鉢植えを見ていると
せつさんが
「呼吸困難と、痛みそれだけなんとかすればいいよね」
と言った。

 どうしてそんな話になったんだっけ・・

 そうそう、寝たきりにはなりたくないね、っていう話をしていたのかな。

「そうですね、今の医療だと痛みはなんとかしてもらえると思います」

「病院にも行きたくないし、検査もしたくない
ましてや延命治療なんて望まない
痛みと呼吸困難さえ、なんとかしてもらえればそれで、
いいんじゃないですか?
それまでは、毎日楽しく生きて」

「そうですね」

せつさんのその言葉を聞いて、
あっそれなら死ぬのは怖くないな・・と思ってしまった。

 私は、母の死を看取った、

 元気だった母が徐々に弱り、意識が薄れて、
必死に母は何か言おうとするんだけど、何を言っているのかよくわからなくて
必死に何かを探しているようなんだけど、それが何かわからなくて
必死に何かを伝えようとしているんだけど、それが何かわからなくて
そのうち瞳孔が開き
医師にそろそろですね・・と言われ
呼吸がだんだん弱くなり
心臓の音が消えていくのを見届けた。

 その時のことを思い出すと、
自分の中で何かが叫びだしそうになり怖くなる。

 死が怖くて仕方なくなってしまった。
なぜだかよくわからないけど・・
そのときの自分の感情を分析しようとすると頭が混乱しフリーズしてしまう。

 そんな私なのだけど
せつさんの言葉を聞いたら、死も怖くないのかな・・
と心がふっと楽になった。

 ずっとパンジーを見つめていたせいかな
紫・黄・ピンク色のパンジーのかわいらしい花のせいかな、
それとも
春の日差しの柔らかさでポカポカ暖かいせつさん家のリビングが
私をそんな気持ちにさせたのかな。

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Last updated  March 24, 2013 11:51:24 PM
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February 24, 2013
カテゴリ:
 慣れない・・

 ある番組を見ていたら、年老いた男性が死んだ。
その男性の年齢が父と近いので瞬時に嫌な気持ちになる。

 報道で、父と近い年齢の人が亡くなると嫌な気持ちになる。

 客観的に父の年齢は、男性の平均になる。
ということは・・・・
と嫌な気持ちになる。

 亡くなった母に関しては、穏やかに自分の中で折り合いをつけれるようになってきた。

 でも、まだ生きている人に関しては、そうはいかない。

 もうあんな想いをするのは、まっぴら

 一度経験したんだから、二度目は慣れる
なんてこと、あるんだろうか

 誰もが死ぬし、
多くの人が愛する人の死に立ち会う経験をする。
私だけじゃない、

 そう思うたび、ほかの人はこういう気持ちとどう折り合っているんだろうと思う。
身近でも、親を亡くした友人、知人はいる。
でも表面上は元気そうで、普通に見える。
そういう人でも一人になれば、私も知らないところでは、悲しみ苦しんでいるんだろうか?

 それとも、こんな風に思う私が特殊なんだろうか
あれこれ思う。

 愛する人の死を考えると怖くてたまらなくなるから
そんな日のことは考えない

 そういう現実は、限りなく心の隅に追いやって
生きている今を、その人と出来うる限り
楽しく、大切に生きていく・・と思うしか

 それしか、ほかに方法は見つからない

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Last updated  February 25, 2013 10:21:43 AM
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December 18, 2012
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 何気につけたテレビ
そこに映し出されていたのは、ある演奏者の「最期のコンサート」シーン。

 途中からだったので詳しい経緯はわからないけれど
タイトルと、彼の表情からそれがどんなシーンなのかは察しがついた。

 演奏前の準備、
普通のコンサートなら、観客もまだリラックスしてるとき。

 でも、このコンサートは
演奏準備する彼の一挙一動を、観客は集中し、
前かがみになって食い入るように見つめてた。

 私も見つめてた。
やせこけた頬、震える手、そして彼の瞳。

 そして演奏が始まる
 
 母の死に立ち会ってから
人の死に向き合うのがますます苦手になってしまった。
 知りたいくせに、逃げ出したい、
安らぎを見出したいのに、不安で怖くてたまらない。

 彼の表情を見つめているうちに涙があふれてきた。

 なんでだろう、なぜ人は死ぬんだろう

 いつかは死んでしまうのに、なぜ生まれてくるんだろう
死にゆく人にも、遺される人にとっても、
悲しくて、苦しい「死」

 演奏が終わって彼は泣いた。

 うれしくて泣いたのだろうか
死にたくないと、泣いたのだろうか

 死にゆく人の「最期の演奏」だというのに
彼の一挙一動は「生」そのものだった。
そこにいる彼は「生」そのものだった
 そこにいる誰よりも「生」を感じさせる存在だった。

 でも、彼は死にゆく人なのだ

 同じように痩せこけて逝った、母と叔父の姿を思い出す。

 最期にこんな思いをするならば、
なぜ、人は生まれてくるのだろう
最期に悲しくて、苦しくて泣くために生まれてくるのだろうか

 どうしてだろう、どうしてだろう、
とまた私は混乱するばかり

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Last updated  December 29, 2012 06:43:43 PM
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December 17, 2012
カテゴリ:
 クリスマスの雰囲気っていいよね
クリスマスって、神聖で
平和や喜びの象徴のような気がする。

 悲しい時ほど、苦しい時ほど、楽しく祝いたいと思う。
何を祝うのかな・・なんだろう・・
 
 みんなで、生きてることの喜びとか、
愛とか、そういうことを分かち合いたい。

 愛する人を亡くしてから月日が経つと
だんだんとわかるようになることがある。

 「あぁ、自分だけじゃない」って
当たり前のことなんだけどね

 多くの人が愛する人を亡くした経験を持っている。
その経験を抱きながら、生きている、
笑ってる、楽しんでる、怒ってる、悲しんでいる、不安に思ってる。

 笑ってる人を見て「あの人には、私の気持ちはわからない」
って思ったり、自分だけが悲しみのどん底だと自分を憐み続けるのは
傲慢であまりに自己中心的だ。

 悲しくても笑えるんだよ、
苦しいときでも「幸せ」って感じれるんだよ。

 そのことに気づいて
それを他の人と分かち合って、一緒に笑ったり、泣いたりしたい

「私、愛する人を亡くしたけれど、今、とっても幸せ」って
多くの人と抱きしめあいたい。

 こういうとき、人は一人じゃない、みんな繋がっている

 「純粋な愛」っていうものを感じることが出来るんじゃないかな

 クリスマスは、悲しいときほど
大騒ぎして、楽しんで、

 多くの人と分かち合いたい、大切なものを

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Last updated  December 29, 2012 06:44:04 PM
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October 17, 2012
カテゴリ:
 恐怖
愛する人を亡くす恐怖

 母を亡くしてからかな
死が身近になってしまった。

 母がいなくなるなんて、
人はいつか死ぬとはわかっていたけど
自分の身近な人がそうなるなんて
すごく矛盾してるけど、思ってもいなかった。

 来年80歳になる父
もう男性の平均寿命を過ぎているんだ
と思うと
怖くなる。

 来年の話をするのが怖いと思うこともある。
来年が必ずあるとは思えない自分にも怖くなる

 夫と食事するとき
その食事が美味しいと思い
ふと、夫の顔をじっと見つめていると
怖くなる時がある。

 真剣に考えれば考えれるほど怖くなる
だから、
 考えない

 楽しいことだけ考える
今、生きているこの瞬間のことだけ考える

 今日、なぜか朝、目が見えなくなる恐怖が襲ってきた。
半分起きて、半分まだ眠っている状態だった。

 目が見えなくなる恐怖
それは自分の理性を超えた恐怖だった
 あまりに恐怖が大きいと人は精神が崩壊してしまうかもしれない
なぜなら、その恐怖から逃げれる唯一の手段はそれしかないから
そんなことさえ思った恐怖だった。

 目がしっかり覚めてしまうと
その恐怖はすっかり去って
なんであんな恐怖に襲われたんだろうって、
不思議に思う。

 親が老い、自分も老いる

 すべての恐怖の源は「死」につながっているという人がいるけれど
どうだろう

 死が恐怖であることが、恐怖なので
なんとか、死と折り合いをつけて
友達までとはいかなくても
 死は安らぎと思える心境に少しでも近づけたらと
恐怖から逃げる
死からは逃げられないけど
恐怖からは逃げれるような気がして逃げる
 
 

 


 






Last updated  October 17, 2012 08:55:08 PM
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October 13, 2012
カテゴリ:
 今日はちょっと難しい話です。

 「自殺ほう助」(安楽死)の映画を見ました。
アメリカの実話を元に作られたようです
 簡単にストーリーを書くと
死を望む人に、医師が安からな死を提供する
という話です。
 もちろん、反対者が出るし、裁判にもなります。
医師の主張は、「人には死を選ぶ権利もある」というもの。
 もちろんどんな人に対しても自殺の手助けをするわけではありません。

 精神的病気を抱えている人に対しては行いません。
病気や障害などで、肉体的苦痛を抱えている人に対して、
その人が強く望むのであれば、死への手助け(安楽死)をするのです。

 興味深かったのは、
彼の「自殺ほう助」に対して反対している人は
無関係な人たちばかりだということです。

 本人や家族は、それを受け入れている、
家族も本人がそう強く望むのであればと
本人の意志を尊重している。

 反対するのは、本人でも、家族でもなく
無関係な人たちばかり。
苦しんでいる本人、家族はそれを強く望んでる。

 反対者は「死の時期を人間が決めるのは神への冒涜だ」
と言いますが

 そういう意味でいえば、
自殺ほう助は認められていないものの
今の医学は、人間に対して、神への冒涜だらけです。
遺伝子操作、中絶、臓器移植・・・

 これは、私の神様論ですが 
神様というのは、人間がなさること、
人間の価値観で測られる善悪には、
干渉されないと思うのです。
 善はよくて、悪はいけない
そもそもこの善悪の自体が、人間が作り上げた価値観ではないか
そう私には思えます。

 結局、医師は有罪判決を受け
刑務所に服役することになります。

 私は、自殺したい人を認めているわけではありません。
死にたいという人を目の前にして
じゃぁ、その手助けをしよう、という気になるかといえば
出来ないと思います。

 ただ、今の医学で自然に死ぬということはまれではないでしょうか

 何らかの死のコントロールがされています。
そう出来てしまいます。

 ただ、心臓を動かしておくだけなら
脳死状態で何年も生きることは可能です。

 私の母の場合は、
私は主治医になるべく自然な逝き方を伝えていましたが
それでも
「この日までは生きていて欲しい時期はありますか?」
と聞かれ、驚きました。
なぜそんなことを言うのか尋ねると

「ご家族の都合(保険などの関係)で、
この日までは生かせて下さいという家族がいるのです」
と主治医は、よくあることだという口調で言いました。

 私は、母の自然な死を願いましたが
母が亡くなってしまうと
どんな手段を使っても、少しでも母が生きれるように
努力すべきではなかったかと
自分を責めることが何度もありました。
 自然に逝かせることが
母を見放し、自分が母を殺してしまったような気がしたからです。

 自然死など、望めなくなっている現代医学

 死のあり方、死の選択
いろいろなことを深く考えさせられた映画でした。

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Last updated  October 13, 2012 11:16:41 AM
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