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結婚前の5年間、毎年春と夏の年2回、大きな旅行をしていた。
1997年、航空会社に勤め始めたその年、トレーニングの一環としてフライト無料券が与えられて自社便であればどこへ行っても構わないというその航空券を使い、私は同期の友人と同僚を訪ねてN.Y.に行った。 乗ったのはファーストクラス。 訓練でサービスは教わっていたけれど、実際お客として乗って初めて体験するファーストクラスはそれはそれは素晴らしくて、ドンペリを飲んだり、キャビアを食べたり、お寿司を食べたり、友人と二人して見学そっちのけで舞い上がっていた。 1998年、2年目は留学中の友人を訪ねてイギリスへ2回行った。自社便ではヨーロッパ直行が無いのでアメリカ経由で待ち時間あわせて26時間くらいかけて行った。 気が遠くなりそうな行き方だけれど、このやり方は結構気に入った。なぜかというと、アメリカまで映画などを見て寝ずに行くと、その後のヨーロッパ便では最初から最後まで寝られて、着いたら向こうの早朝だから一日目から時差ボケ無しでスタートできる。 1999年は春にタイのサムイ島に行った。サムイ島の空港には窓が無いのにおどろいた。窓どころか建物さえも無い。ただ屋根があるだけの空港は初めて見た。 夏はドイツを中心に近隣諸国まで足を伸ばした。 ドイツでは船でライン川下りをやり、自転車で21km先のワインフェスティバルへ行き、お城に泊まって無料でおいしいワインをいっぱい飲んだ。チェコではカヌーで45km川を下り、ハンガリーでは一人でオペレッタを鑑賞した。締めにパリの友人宅へ行き、道中にできてしまった足のタコを落とすのにゆっくり時間を使った。 2000年は春に後に夫となる人とペルーへ行った。ロス、グアテマラ、サンホセを乗り継ぎ日本から25時間くらいかけてリマに到着。機内の乾燥で、着いたときには全身からからの状態で髪も逆立っていた。 リマで数日過ごしてからクスコへ行った。 標高が高いせいで持っていたポテトチップの袋がパンパンになっていた。 ペルーに来た最大の目的のマチュピチュへ4日間かけてトレッキングをした。バックパックと大きな寝袋を手に持って、一生懸命ガイドさんについて行った。食事も寝るのもトイレも自然の中でした。飲み水は貴重品だった。 大変な思いをして到着したマチュピチュは素晴らしかった。本当に空中帝国のようで目線に雲が浮かんでいた。 クスコでは感動的な出会いもあった。 マチュピチュからの帰り、水に当たって彼が吐き始め、最終電車を逃した。どうやってクスコまで連れて帰ろうか田舎の人の少ない駅でおろおろしていたら英語の喋れる女性とであった。 彼女がタクシーでこれからクスコへ帰る予定だというので無理やりお願いして乗せてもらった。1時間強の道中2~3回は吐き気で車をとめなくてはならなかった。彼女にとっては仕事の後の疲れたところへ更なる災難が襲ったかのようだっただろう。どうにかこうにかクスコのホテルまで着いたとき、感謝の意を込めてタクシー代を払わせてもらえるようお願いした。 彼女は言った。 「今回は私があなたたちを助ける番だったの。お金はいらないから次はあなたたちが誰か困っている人を助けてあげて。」 涙がでた。本当に。 夏はバルト三国へ行った。前年チェコやハンガリーに行って、東ヨーロッパに魅せられていたから。ソビエト連邦下時代の色濃く残る街エストニア タリン、独立してから数年でヨーロッパらしさを取り戻し、なんだか不思議なミックスで魅力に満ちている街だった。ラトビア、リトアニアも人との出会いがあって忘れられない国になった。 2001年は同期の友人とトルコへ行った。イスタンブールから時計回りに周遊する予定が私の風邪でギョレメに2週間ほどいる羽目になった。 岩のホテルに泊まって、私がベッドに寝ている間友人は厨房を手伝ったり、朝5時にパンを買いにいったりしてスタッフのように働いていた。 風邪が治ったら、熱気球に乗った。 初めて乗ったのだけれど、ここで乗って良かった、と心から思える壮大な景色を眺めた。 スターウオーズが撮影された谷も見た。 ラクダにも乗った。 そして2002年9月、友人を訪ねてパリに行ったのを最後に私の自由気ままな旅はしばらくお休みすることになった。 2002年に結婚して2003年に子供が産まれた。結婚してからも毎年クリスマスに夫の実家のあるフランスへは行くけれどもこれまでの5年間とはまた全然違うものだ。 そして今日、2004年夏、夏休み家族旅行に行こうか、それともそのお金で新しい掃除機を買おうか悩んでいる。真剣に。 世界旅行から3万円の掃除機への思考の移行。 ライフスタイルの変化。 反乱がないほうがおかしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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