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椿荘日記

椿荘日記

けむり男と落ちてきたお月様

けむり男は孤独だった。
体は燻したように真っ黒け、おまけに表情と来たらぶすぶすと顔全体が燻って(くすぶって)いて、表情なんかわかりゃあしない。
女房とは大分前にお別れだけど、死別か離別かも覚えてはいない有様だ。
両親も兄弟もいたんだか、いないなかったのか。物好きが尋ねても、けむり男は曖昧に首を竦めるだけだった。

けむり男の生業は看板描き、そう、街角でよく見るあの巨大な絵看板。
来る日も来る日も黙々と、注文された絵柄や文字で大看板を埋めて、他人様に、告知の為に何時も大筆を振るう。結構な腕扱きなので、注文は何時も一杯、賞賛も上々。でも、皆に褒められ、クライアントに感謝されても、けむり男は淡々と報酬を受け取り、疲た表情で肩を聳やかすだけだった。

けむり男は世間や人に、余り関心がないようだ。

朝は決まって八時に起き、髭を当たり、顔を洗う。朝飯なんて適当でいい。食えりゃあ良いんだ。けむり男は一人語ちる。
九時に親方の所に行き、注文の内容を聞いて材料を用意、いつもの様に大看板に向かって、大筆を振るう。
『○○亭新装開店。』『○○屋オープン、出血代サービス』『クラブ○○、コンパニオン大量在籍』・・

でも内容なんか、けむり男には何の関係も無かった。要求された文字と絵柄を下図に沿って描けば、それで仕事は終わりだ。けむり男は道具を片付けながら、家路を思う。
そう飲むわけでもない。そんな大食いでもない。
燻った表情でささやかな食事を居酒屋のテーブルで突き、そして一杯。
けむり男はふいに、家で留守番をしている猫を思い出す。ああ、あいつ、今日の朝飯を残したっけ・・。腹がへってるんだろうな。
残り物を気の良いマスターに包んでもらい家路を急ぐ。長くて細い影法師、燻らせる煙草の煙で、燻された様な表情が益々曖昧だ。

「只今」。けむり男が扉を開けると何時もの我が家の空気とは違っていた。まず第一、何時もは無愛想だが、腹が減っているとすっとんで来て、喉をならす相棒がいない。いや、いないのではなく、何処からか、彼が息を潜めて隠れている荒い息遣いを微かに感じる。おかしい。
ふと台所脇の風呂場を見ると、暗いはずの戸口から眩しいばかりの明かりが漏れ、何かが蠢いている気配さえする。??
心当たの無いけむり男は訝しがりながら、火事か猫か不審者かいなくなった女房かそれとも?と疑いながら思い切って扉を開けた。そしたら!!

バスタブに大きな三日月(若しくは三日月の姿を真似た人物?)が、完全に体をはめ込んで、じたばたと暴れていたのだ。
巨大な猫の爪様のしゃくれた顔、白いナイトガウンを着た大きな体、腕を振り回して「だせー、だしてくれー」と大声で叫ぶ。けむり男は思わず曖昧な自分の両目を擦った。どうやら夢では無いらしい。気が付くと猫が足元で、不安げに見上げながら、空腹と安堵で体を擦り付けている。こいつめ!番犬までは要求しないけれど、不審者なんか入れるなよ!と心の中で叫んだが、今は兎に角、この不審者「お月様もどき」を尋問しなくては。
だが、引っ込み思案で臆病なけむり男のことだ。最初は小さな声で、神妙に
「・・あの、あなたは誰ですか・ど、どんなご用件で・・・?」と誰何するのが精一杯。そしたら、件のお月様もどきは馬鹿でかい声で無遠慮に「月にきまっているであろう!おぬしは我輩があの馬鹿げた太陽にでも見えるのか!」と吼え、矢継ぎ早に、唖然とするけむり男に傲然と要求をした。「いいから早く、この小さな便器から、我輩を引っ張りだしてくれ!」
けむり男は肝を潰しながら、猫でも女房でも不信人物でさえない、その巨体の腕を引っ張って、漸くバスタブから開放してやった。

なにしろ狭い部屋だ。巨顔巨体のお月様を鎮座させるには、片隅にある小さなベッドしかない。けむり男は困惑しながら、お月様もどきをベッドまで誘導し座らせ、自分は少し離れた床にぺたりと座り込んだ。
沈黙が辺りを流れ、自分の部屋ながら居辛さと疑惑で一杯になったけむり男と、救われて落ち着いたお月様が話し始めたのは殆ど同時だった。
「何の御用ですか?」
                  「何で我輩はここにいるのか?」

勿論答えなどあるわけがなかった。
お月様はじろじろと不遜な様子でけむり男を眺め、悪いが我輩は眠いので寝ると一言云うとごろりと横になって寝てしまった。けむり男の唯一の寝床で。

けむり男は余りのことに、大声で悪態をつきそうに為ったが、日頃は静かである自分の評判を落としたくないので、仕方なく床の敷物に横になるとした。猫がやっと安心したように、けむり男の腹の辺りに擦り寄ると、思わず見上げた天窓に、冷たく冴えた三日月が白い姿をさらしていた。

固い床に腰を痛めて、思わず目を覚ましたけむり男が見たものは、悠然とけむり男の煙草を咥え、いつの間にか調子よくも懐いてしまった猫を従え、これまたけむり男の愛用のマグカップでコーヒーを満足げに啜る、昨夜の、猫でも女房でも只の不信人物でもない、お月様もどきだった。
「ふん、だから「もどき」ではない。正真正銘「お月様」である。?なに?夕べ、ちゃんと本物が空にいただと?なに、あれは、ダミーだ。女房に隠れて家出したのでな」まあまあと、客用の大切にしていたコーヒーカップに注がれたコーヒーを勧められたけむり男は、軽く頭を下げながら、啜り始めた。すっかり家出の「お月様」に飲まれてしまっていたのだ。
「女房?太陽のことか?ふん、あんなもの。只図体がでかく、質量が太陽系一、というだけであろう。我輩なぞ、高々この地球の衛星でしかないのだが、皆の信仰を集めておる。大したもんじゃろ。何?この世界では、太陽が夫で、妻が月だと!とんでもない、ふざけておる。太陽なんざ、我輩が大人しく、地球と女房の間を規則正しく、卒なく廻っておるから世の中平穏という訳じゃ。のう?」
けむり男は、出鱈目としか聞こえないお月様の演説を辛抱強く聞いていたが、ふと、お月様の顔の周りに、煙るような光の粒子が、常に渦を巻いたり流れたり、放散しているのに気が付いた。確かに「中の人」の必要な、着ぐるみではなさそうだ。
けむり男はふと、自分を取り巻く、真っ黒な細かい粒にひとつひとつその光の粒が当たっているような気がしたが、兎に角目の前に立ちはだかる、今や「猫でも女房でも只の不信人物でもない、お月様と称する人物」にどうしたら早く帰ってもらえるか、頭を働かせはじめた。
今日も俺は仕事がある、かと言って、こんなわけの分からない奴を、家において出るわけにはいかない。どうすれば・・?

ふと思いついたけむり男がお月様に提案したのは、「折角家出したのなら、私に付いて、この世の中なるものを見てみませんか?」
物好きなお月様は直ぐに快諾した。


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