214722 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

椿荘日記

椿荘日記

けむり男と落ちてきたお月様~4

けむり男は薄暗い納屋にいた。幼い時分なのだろう、藁を敷いた壊れた手押し車の中にぽつんと一人座って、壁の隙間からこぼれる光を眺めていた。日のひかりか?いや、そうじゃない、月の光だ。飲んだくれの親父に、何時もののようにこっ酷く叱られて納屋に閉じ込められたのだ。傍にはいつの間にか飼い猫がやってきて、寒さに震え胸を抱えていた手を舐めている。こいつはいい奴だ。俺が叱られていつも納屋に閉じ込められると、必ずやって来て慰めてくれる。死んだお袋のようだ、と子供のけむり男は思っていた。膝に飛び乗って暖めようとするように身を擦り付ける猫を抱えながら、隙間から細く覗くお月様に


いきなり排気管からミサイルのように、天空に帰ってしまったお月様を呆然と眺め、暫く立ち尽くしていたけむり男だったが、何故だか得心したように、今までにはなかったほうっと息を吐き、何だか軽い足取りで家に帰った。顔の前に纏わり着いていた筈の靄でさえ、気が付いたらすっきりと晴れているようだ。

「只今」・・??
昨日のように、再び空気が変だ。おまけに相棒の猫の気配さえしない。
不信に思ったけむり男の前に、「あんた、お帰り」と、女の声がした。
「・・おまえか?」「そうあたし、今まで気が付いてくれなかったけど・・やと分かってくれた?」猫は猫ではなく不審者でもなく、けむり男の女房だった。
「あんたったら・・あたしのことを猫にしちまって・・。でも、もうわかるのね」「ああ、大丈夫だ。お前は、おれの女房だ!」

けむり男と猫の女房は嬉しそうに抱き合い、お月様とドンチャン騒ぎの居酒屋で初めて踊ったあの踊りを、手を取り合い楽しげに踊り始めた。
実はけむり男は、この女房が、前の女房と一緒か違うか分かっていなかったが、それでも楽しく、それでいいのだと心から嬉しく思った。
夜空には、かのお月様が、さもずっとそこにいたかのすまし顔で、マンドリンを抱えマドリガルをがなっていた。



© Rakuten Group, Inc.