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椿荘日記

椿荘日記

ショパンのパリ、椿姫のパリ②

さて1839年フランスに戻った二人は、以降サンドの別荘のあるノアンとパリの往復の生活を続けます。
成功の象徴だったショセ・ダンタンの住居を捨てての逃避行の後の、サンドとの労わりに満ちた生活は、ショパンに多くの優れた作品をもたらしました。
公開演奏からは既に遠のき、生活の為のピアノレッスン以外は作曲に打ち込み、ピアニストから作曲家としての移行は、ショパンにとっても望ましいことだったでしょう。
パリの住居も今度は芸術家達の多く住むピガール街に求めます(サンドも同じ街に住んでいました)。

さて、一方の若き「椿姫」は八百屋の売り子の仕事に熱意も示さず、いつも親戚の目を盗んでは、街中をほっつき回っていた為愛想をつかされ、最初は洗濯屋に、そして婦人服店と、文字通り「ラ・ボエーム」のグリゼット(女工)の生活を始めます。
野菜相手の味気ない生活とは違い、美しい織物、数百フランもする高価なレースは、大人になりかけた少女の、お洒落をしたいという気持ちを大いにくすぐったことでしょう。事実彼女を含む多くの「グリゼット」の過酷な労働の合間の楽しみは、店の衣装の裁ち屑でこしらえたスカーフを羽織り、友達や、弁護士、医者の卵といった学生のボーイフレンド達と出掛ける、日曜のダンスパーテイでした。そこでアルフォンシーヌは田舎の藁まみれで、不本意な経験の思い出を振り払っていたことでしょう。
彼女が最初の「パトロン(出資者)」を得たのもそうした楽しい日曜のピクニックのエピソードからでした。
突然の雨に降られ中止の憂き目にあった、同じ職場の友達との楽しいピクニックは、パレ・ロワイヤルのモンパシエ回廊(パサージュ)の雨宿りを兼ねたレストランでの食事に変りました。
賑やかに食事をする珍しいグリゼットのグループに関心を抱いたオーナーは、貧しい身形ながら、美しく上品なアルフォンシ―ヌを見初め、最終的には愛人になることを承諾させます。
もうすぐ17歳を迎える「グリゼット」の心にあったものは、店で扱っていた美しいドレスやボンネットを身につけ、暖かい暖炉のある家具付きのアパルトマンで眠り、飢えに苦しむことはもう無いのだからという気持ちだったのでしょうか。
ともあれ、その後彼女を徹底的に教育し、身ごなしや身繕いなどを教え「貴婦人」に仕立てあげた若きグラモン公と出会う運命的な時は迫っています。

あれほど公開演奏を嫌っていたショパンですが、各方面からの度々の熱心な要請に負け、1841年、1842年と自作の演奏会を開いています。この演奏会の切符はきわめて高価で出席できる人の階層はおのずと決まっていました。ごく親しい人々(ハイネ、バルザック、ドラクロアなど)に囲まれての静かな暮しは、彼の創作生活を守り、刺激を与えてくれましたが、次第に進む病状は誰の目にも明らかでした。虚弱だった彼の体に住みついていたのは結核だったのです。

その頃、学生や女工仲間と遊びまわる時代を「卒業」したアルフォンシーヌは、白い絹のドレスを纏い、花束を手に、礼服のパトロン氏に腕を預け上流階級の出入りする舞踏場に姿を現します。
若く美しく気品さえある美女に人々は目を見張り、その中に彼女を「女ダンデイ」に作り変えるド・ギッシュ・グラモンがいました。
二人は出会うなり恋に落ち、アルフォンシ―ヌの中に眠る「知性」と「独立不羈」の芽に気が付いた彼は良い家庭教師をつけてやり、読み書き、会話術、読書を教え、音楽を習わせ(後年の彼女は、ショパンも愛用していたプレイエルのピアノを使用し、リストにも師事しました)行儀作法を授けました。
見事に変身したアルフォンシ―ヌは、大貴族グラモン家の相続人に腕を預け、イタリア劇場やヴァリエテ劇場に、その美しく、気品に満ちた姿を現します。「椿姫」への第一歩がそこにありました。
当時のパリの劇場は、演劇を観たり、オペラを鑑賞するという本来の目的の他に、「自分の姿を見せる」という披露の場という側面があり、「ファッシユネブル」「ダンデイ」と呼ばれた自分の容姿に自信のある貴族やブルジョアの青年達「フラヌ―ル(遊び人)」は、同じく、華やかに着飾った美しい女性を「連れ」とし、その姿を誇らしげに自慢したいが為、劇場通いに精を出していました。ド・ギッシュのもくろみは見事に命中し、その日から「アルフォンシ―ヌ」は、パリの人気者になったのでした。

マリの肖像

マリ・デュプレシの肖像

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