うたのおけいこ 短歌の領分

2013/11/04(月)09:54

「表現しすぎた志」の怖さ ── 玄侑宗久 『禅的生活』 の表現論

アフィリエイト(346)

玄侑宗久  禅的生活 【送料無料】 価格:819円(税込)  若い頃から一定の関心はあったのだが、最近「短歌人」仲間とのやりとりの中でインスパイアされたことなどもあって、ふたたび仏教の禅や瞑想というものへの興味が湧いてきており、関連書籍を読み耽っている。  その一環として、作家で現職の僧侶である玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)氏の『禅的生活』も読み返しているところだ。小型の新書版ながら、中身がぎっしり詰まっており、実に奥が深い名著だと思う。  その中で、われわれに縁が深い俳句や詩の表現と「志」に関して特に目を惹く一節があったので、引用してご紹介することとしたい。 〔本文199-201ページより引用〕  だからこそ、志の立て方は重要である。あまり締め付けがキツイと自分で自分を無意味に苦しめることになる。「志」というからには、むろん多少の不自由さは仕方ないが、例えば「貧乏でいつづけたい」などというのは、生命力そのものを塞ぎかねないから「志」としては不適当だ。また男にせよ女にせよ「二言にごんを言わない」などというのもガチガチすぎる。人の気持ちは変わって当然であり、しかも言葉というのは「絶対的一者」を表現できないのは勿論のこと、いつだって行きすぎてしまうものだからである。志はたいてい言葉で表現するものだから、その点は十分注意していただきたい。  たとえば「慈悲ふかくありたい」というのは立派な志かもしれない。しかし人は、すぐにもっと過激な表現を目指す。たとえば良寛和尚の父親である橘以南は、三十歳以上も年下で新進気鋭だった一茶と「慈悲」というテーマで俳句を詠みあう。一茶が「やれ打つな蝿が手をする足をする」と詠んだのに対し、以南は「そこ踏むなゆうべ蛍の居たあたり」と詠んで一茶を降参させる。しかしそうした表現は、しずかに確実に表現者本人を縛っていくのではないだろうか。極端なことを申しあげるようだが、ゆうべ何かが居たと思えば、東へも西へも一歩も進めなくなって立ち往生するしかなくなる。以南が京都の桂川に入水じゅすいして死んだことが直接その俳句に関係するわけではないが、私にはまったく関係ないとも言いきれない気がするのである。  金子みすゞという優れた童話作家も、その意味では表現しすぎた人だろう。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがってみんないい」までは佳かったけれど、「私は好きになりたいな、なんでもかんでもみいんな」とまで言われたら「それは無理です」と言ってあげたい。「私がさびしいときに、仏さまはさびしいの」と言われたら「それは違います」と申しあげたい。そうした無理な表現に自分の全体を合わせ、方便であることを忘れていくから、彼女も自死するしかなくなってしまったのではないだろうか。  宮沢賢治の場合は自死ではないけれど、しかしなんとなく、やはり「志」がキツすぎた気がして仕方がない。「農民芸術論綱要」にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という表現がそれである。私に言わせれば、もしそれが本当だとすれば、その「世界」とは此の世のではなく兜率天とそつてんぐらいしかあり得ないと思えてくる。 あくまでも此の世に生きる我々にとっては、個人の幸福の集合体が世界の幸福であるしかないはずである。  だから行きすぎた表現を「志」にするのは、危険だと申しあげたいのである。  それなら、どんな限定を志にすればいいのか。 〔引用終わり〕 * 著作権の関係もあり、引用はこのぐらいに留めたい。この続きに興味がある方は、本書を手にとってお読み下さい。 

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る