2014/10/19(日)18:20
生沼義朗氏の永井祐論 「解体そして新陳代謝」(「短歌人」10月号)について
「短歌人」10月号に掲載された歌人・生沼義朗氏の優れた評論「解体そして新陳代謝」より、歌壇内外から注目を集めている気鋭の若手歌人・永井祐氏に関する部分を一部引用してご紹介したい。骨子は下記の通り。
永井祐論として出色であることはもちろん、彼の出現が歌壇に与えつつあるインパクトと、アクチュアルな現代短歌史的意義について、世代論をからめつつかなり納得のいく分析をしていると感服した。実をいうと、私もかねてから似たような方向性で考えていたのだが、緻密に思考を深めるのは苦手かつ面倒くさいので(よく言えば直観的な性分なので)、ここまでの思索にはとてもとても達していなかった。
永井作品と石川啄木の通底的な相似性については比較的見やすいところだと私は思ってきたが、生沼氏が、同じ近代でも巨人・斎藤茂吉を引き合いに出してきた点には舌を巻いた。これすなわち、「短歌人」が誇る巨匠・小池光氏の名が喉まで出かかっているということかと勝手に忖度している。
今後、永井作品に言及する者は、何人もこの論文を無視できないであろう。いうなれば、歌壇側からの永井氏への「武装解除」宣言とでもいうべきか。いずれにせよ、「叩き台」としてもかなり包括的で完成度の高い評論であると思う。なお、この評論文はもう3人の新進歌人の作品に言及しているのだが、この部分については、言っては悪いが「なるほどごもっとも」という棒読みの感想しか浮かばなかったのは、まことに申しわけなく思う。
【以下引用】
永井は徹頭徹尾、平易な口語文体でフラットな世界を立ちあげてきた。ゆえに作中主体の行動を言葉通りに解釈し、その感情がはっきりと描写されていないために、(特に上の世代の)読者が読みを深められずに終わる現象が確かにあった。
実際、穂村弘からは「修辞レベルでの武装解除」の代表例と看做され、永井を痛烈に批判した島田修三の時評「まわって来たツケ」(「短歌現代」2006年5月号)は当時大きな反響を呼んだ。一方で、永井と同世代の花山周子は、坂井修一、大辻隆弘、斉藤斎藤との座談会「批評の言葉について」(「短歌研究」2010年6月号)で、「割と近代に近いような読み方で素朴によさを感じているんですけれども、歴史からもっとも切り離されたみたいな言われ方をされているのをよく聞いて意外な感じがするのです。(略)彼の作品が上の世代の方たちに受け渡される過程に、穂村さんの批評用語が挟まることで、かなりねじれた伝わり方をしているのではないか(以下略)」と述べている。
(中略)
かつてリアリティは、具体的なモノと合わせて読者に手渡すのが王道だった。その最たる例が斎藤茂吉の唱えた実相観入である。だが永井は、リアリティをリアリティのまま、剥き身の状態で読者に提示する。永井にとって、歌の中に出てくるモノは比喩でも象徴でもなく、ただ(作品世界の中で)そこにあるから読み込まれているに過ぎない。つまり、従来の読み方では、永井の歌からリアリティを感受できないのだ。永井の歌の詠まれ方が世代によって異なる大きな要因である。
だが、『日本の中でたのしく暮らす』(2012年5月刊)をよく読むと、作中主体の気質という点では、前述の座談会で花山の言った「割と近代に近い」ことがよく分かってくる。永井は表面的な写生にとどまることなく対象に自己を没入し、自己と対象が一つになった世界を具象的に写そうとしており、その意味で実相観入本来の意義は果たされている。ただ、その修辞や描写のベクトルが近代短歌のセオリーとあまりに違うゆえに、反応の差が生じたのだろう。
かつて、永井の作品はしばしば「脱力系」と評されたが、脱力と呼ばれるべき要素はそれほど感じられない。読者が永井の作品を読んで勝手に脱力するのならともかく、少なくとも作者および作中主体は脱力なんかしていない。むしろ冷静に対象を眺めている。脱力しているように感じるのは、作中主体自身や外部の把握はもちろん、表現そのものもやるせないほどまでに身も蓋もないからである。
とはいえ、読者へ主義主張やメッセージを届けようとする歌でもない。あくまで永井は、現在使われている言葉の、現在使われている用法で、現在の生活と自我を描いているに過ぎない。そこに、前衛短歌およびそこから派生したニューウェイブが培ってきた、修辞を駆使した自我の描き方の方法論は存在しない。その意味で、前衛短歌以降の方法論を一度解体し得たことは永井(ひとりだけではないが)の功績と言っていい。
【引用了】 (文中敬称略、下線は筆者の疑問点)
ただ、「ツッコミどころ」は若干あるようにも思える。アンダーラインを引いたところあたりに、私個人はちょっと引っかかった。認識が間違っているというのではなく、論理的整合性は至極通っているのだが、異議というほどではないものの、かすかな違和感を覚えるのだ。
「その修辞や描写のベクトルが近代短歌のセオリーとあまりに違う」と生沼氏が言うほどに方向性が違っているとは思えないのだ。私には、同じ近現代の日本語表現という枠組みの中での時代・世代や個性の差異に過ぎないのではないかと感じられる。坪内逍遥や二葉亭四迷らが明治期に(当時の落語の速記本を参考にしたといわれるが)言文一致体を始めた時の読者や識者の戸惑いと似たような現象ではないかとも思われる。
「読者へ主義主張やメッセージを届けようとする歌でもない」という点にもやや違和感がある。なるほど、狭義の(政治的、ないし社会的などの)「主義主張やメッセージ」性は確かにないが、茫漠とした広い意味での(とりわけ文学的な)メッセージ性は明らかにあると、私には感じられる。ただ、これらはいずれも直観的な感じ方であり、これを的確に説明する言葉を持たないわが身の無知が残念である。
永井作品の持つフラットなテクスチャーは、何かに似ている(デジャブがある)とかねがね思っていたが、短歌以外にいくつか思い当たるものがあると気づいた。それは例えば保坂和志の小説である。谷川俊太郎の一部の詩である。いずれも私は大ファンで、主要作品はほとんど読破していると思う。また、多くの俳句が醸す枯淡な境地である。映画でいうと、成瀬巳喜男監督の作品群である(その系譜からは異質といわれる代表作の『浮雲』を除く)。
一見平板で起伏がなく、だらだらしているように見える中に、噛めば噛むほど味が出る都こんぶやするめいかのような興趣がじわじわと溢れ出してくるのである。私は若い永井君に魅せられてゆくばかりであり、蔭ながら将来を嘱望しているところである。
* 永井作品のいくつかは、10月2日~3日のエントリーに掲載しています。
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