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ミーコワールド

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名もなく貧しく逞しく



  [名もなく、貧しく、逞しく]

昔、「名もなく貧しく美しく」という映画があった。

高峰秀子さんと小林桂樹さんが主演されていたと記憶している。

耳が聞こえないばかりに言葉を操るのが不自由な夫婦の話であった。

七転び八起きの人生ならぬ、七転八倒のような人生の中で周りに助けられて

明るく生きるという物語であったと記憶している。

美しい心を持つというのはかくも大変な事かと子供心に思ったものだ。

私のオバは何度も映画館へ見に行ったようだ。

その度に目を赤くして帰ってきた。

私にも見に行けと言ってお金をくれた。

私は一人で行ったように思う。

その映画の中で息子がすごく逞しく育っていくのを見て感動した。

今から思えば、子供というものはどんな環境であっても、

周りの大人の思いやりで逞しく、優しく、育っていくものだと思う。

美しく生きるにはキズ付き、七転び八起きならぬ七転八倒を

しなければならないのかも知れない。

その中で他人を思い、自分と闘い、こころのキズを癒しながら

生きて行くものなのかも知れない。

今でもお互いを思い、他人の痛みを思い、自分のこころに痛みを

感じている人が多さんいる。

それは必ずしも長年の友ではない事もある。

私は度々そんな人に出会う。

昨日、今日、知り合っただけなのに、こころの底からの思いやりが

ヒシヒシと感じられる人がいる。

そんな時私はこれが仏様に出会うという事なのだろう、と思う。

観音様であったり、菩薩様であったり、いずれにしろ仏様に代わりはない。

私はとてもそんな風にはして上げられないけれど、

せめて心配して上げるくらいはしてやりたいと思う。

仏様や観音様にはなれないけれど、せめてほほえんで「お元気?」と

声をかけて上げられる私になりたいと思う。

でも私には逞しさが足りない。

まだまだ誰かの袖の端を掴んで泣きたい人なのだ。

誰彼なしに袖の端を掴む訳にはいかないのでついつい強がりを言っては

ひんしゅくを買っているのが現状なのだが、

私にもやっと袖の端を掴む人が現れた。

と思いきや、その人は自分の袖の端と仏様の袖の端と持ち替えさせた。

しかも私の納得の上での事である。

なんとも見事な技である。

その人は男ではなく、女である。

何とも見事な人生の指導の仕方である。

特定の仏様ではなく、「仏」そのものである。

私にはその人、そのものが「仏様」に見えているのだが、違うのだろうか。

そんなに歳は違わないのに尊敬に当たる。

他にもまだそんな人がいる。

その人も私の窮地を救ってくれた。

この人も私にとっては「仏様」であり、「観音様」「菩薩様」である。

今、私がこうして書いているのは全くその人のお陰である。

「仏様」も「観音様」も「菩薩様」もそのまま現れては下さらないが、

「名もなく、貧しく、逞しく」生きている人の体を借りて生き仏様のように

現れるのだという事が良く判った。

しかも必ず年上だとは限らない。

若くても立派な人が現れる。

私のメル友にそんな人がいる。

若くして本当に立派な考えでシッカリと生きている。

あの人は必ず「名もなく、貧しく、逞しく」生きる生き方から

「名もなく、貧しく、美しく」生きる人になるだろうと思う。

私にはない「逞しさ」がある。

それも「美しい」逞しさがある。

まだまだ日本は捨てたものじゃない。

もっと多くのそんな人がいるはずだ。

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