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2015年05月17日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
こんにちは  今日私は55歳になりました。四捨五入したら60歳。
脳性まひは短命が多い 昔はそう言われてました。

今日はちょっと 頑張って書かせて頂きます。読まれる方も大変かもねー

 昭和35年 1960年 5月17日 東京都葛飾区立石にある日赤産院である女の赤ちゃんがうまれた。
体重は3770G 大きい・ね  でも  産声をあげなかった。(仮死状態)
 母の母体にいる中で 「核黄疸」が出て、生まれてすぐ保育器へ・・結婚5年目で生まれた赤ちゃんにこれからどんな運命がおこるか 母も知らない。お乳も飲ませてもらえずに 母は退院していく。
 

「脳性まひ」と診断されたのが何時なのかは私は知らない。東大病院も行ったが駄目だったそうだ。

(この時に障害認定を受けていれば よかったのに)軽度だから、と腹をくくっていた?のかもね
幼稚園の時に 週一で目黒まで通った。子供なので母の叔母の家に泊まったらしい。(これは記憶にはあるが、言語障害とかあらゆる事をみてもらったらしい)母の従姉妹たちと仲良く遊んだ。家に帰れなくてサミシイ思いもした。
やがて小学校に就学するが 船橋には当時「藤原学園」といういわゆる 「特殊学校」養護学校があるが 
普通学級ですごす。   ここでも2年間 言語治療教室に通う(授業をぬけだす)クラスメイトには ぎこちない動きの為に「きちがい」と言われてました。馬鹿にされて自殺したい毎日でした。   
このときのテープが未だ残っていて何年か前に聞かせて頂いた。すごーく変な発音でした。

中学入学にあたり 女子校で私立にした  まあ 妥当ですねー
この時に前途した母の従姉妹がでた学校に行きたかったが 小学校の先生が内申書かいてくれなかった。
小学校から電車通学してたので さほど きつい?ってのはありませんでした。
船橋から小岩までの片道15分でした。本当は大学進学の際に保育専門に進みたかったが「声が小さい」と
言われ 商経課に進む。

昭和55年卒業にあたり はじめて「障害」に向き合う。障害者手帳の申請である。
思えばここから 母との確執が始まる。

障害者手帳を今までもっていないから 病院も判らない。
何科で受診?なんで申請?
東京逓信病院での受診 本来は7級とか言われたが6級で手帳申請OK   
       この後は又いずれ^^





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最終更新日  2015年05月17日 16時48分47秒
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