カテゴリ:カテゴリ未分類
こんにちは 今日私は55歳になりました。四捨五入したら60歳。
脳性まひは短命が多い 昔はそう言われてました。 今日はちょっと 頑張って書かせて頂きます。読まれる方も大変かもねー 昭和35年 1960年 5月17日 東京都葛飾区立石にある日赤産院である女の赤ちゃんがうまれた。 体重は3770G 大きい・ね でも 産声をあげなかった。(仮死状態) 母の母体にいる中で 「核黄疸」が出て、生まれてすぐ保育器へ・・結婚5年目で生まれた赤ちゃんにこれからどんな運命がおこるか 母も知らない。お乳も飲ませてもらえずに 母は退院していく。 「脳性まひ」と診断されたのが何時なのかは私は知らない。東大病院も行ったが駄目だったそうだ。 (この時に障害認定を受けていれば よかったのに)軽度だから、と腹をくくっていた?のかもね 幼稚園の時に 週一で目黒まで通った。子供なので母の叔母の家に泊まったらしい。(これは記憶にはあるが、言語障害とかあらゆる事をみてもらったらしい)母の従姉妹たちと仲良く遊んだ。家に帰れなくてサミシイ思いもした。 やがて小学校に就学するが 船橋には当時「藤原学園」といういわゆる 「特殊学校」養護学校があるが 普通学級ですごす。 ここでも2年間 言語治療教室に通う(授業をぬけだす)クラスメイトには ぎこちない動きの為に「きちがい」と言われてました。馬鹿にされて自殺したい毎日でした。 このときのテープが未だ残っていて何年か前に聞かせて頂いた。すごーく変な発音でした。 中学入学にあたり 女子校で私立にした まあ 妥当ですねー この時に前途した母の従姉妹がでた学校に行きたかったが 小学校の先生が内申書かいてくれなかった。 小学校から電車通学してたので さほど きつい?ってのはありませんでした。 船橋から小岩までの片道15分でした。本当は大学進学の際に保育専門に進みたかったが「声が小さい」と 言われ 商経課に進む。 昭和55年卒業にあたり はじめて「障害」に向き合う。障害者手帳の申請である。 思えばここから 母との確執が始まる。 障害者手帳を今までもっていないから 病院も判らない。 何科で受診?なんで申請? 東京逓信病院での受診 本来は7級とか言われたが6級で手帳申請OK この後は又いずれ^^ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月17日 16時48分47秒
コメント(0) | コメントを書く |