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2007/07/06(金)17:52

扶餘の落花岩で悠久の時を思う

Korea韓国2007(32)

観光案内所には日本語のできる人もいはった。市内の地図をもらって、扶蘇山(プソサン)へ。 山っていうても海抜106mしかない。 チケット売場になってる泗び(水編に比っていう漢字)門(サビムン)で入場料2000W(約271円)を払うて、松林のなかのなだやかな道を上がって行く。20分ほどで一番高いとこに建ってる泗び楼(サビル)に着いた。 私は子どものころから歴史が大の苦手。記憶力に難があるんで、暗記物と思うてた歴史は毛嫌いしてた。 でも旅をしたり、美術品を観てるとその背景が知りたくなる。そんなことから行った国の歴史や日本との関係をちょっとずつ学んでる。 百済の前期は漢城(今のソウル漢南)に都があったそうや。475年に高句麗に漢城を落とされて、都を熊津(今の公州市)に移す。そして、538年熊津から泗び(今の扶余郡)に遷都してんて。 日本は倭国って言われてる、飛鳥時代初期、欽明天皇のころ。 泗び楼は、そこから名前をとってんなあ。 ここで、おじさんから韓国語で声をかけられた。日本人で韓国語がわからへんって言うと、紙にきれいな楷書で「文化鮮説」って書いて見せはる。意味がわからへんから、知らんってジェスチャーで示してんけど何のことやったんやろう。 山の反対側に下っていくとすぐに、六画形をした百花亭があった。 すぐそこは断崖絶壁になってて、白馬江(ペンマガン)に面してる。 660年新羅・唐連合軍に攻められ、泗ぶ城落城に際して、数多くの百済の宮女と女人たちが、敵に辱めを受けるよりはと白馬江に身を投げたそうや。そのチョゴリの舞う姿は花が散るようやったということから、飛び降りた断崖を落花岩(ナッファアン)、その上に建てられたあずまやを百花亭(ベッファジョン)と名づけてんて。 百済と同盟を結んてた日本(倭)からも援軍が送られて、「白村江(はくすきのえ)の戦い」っていわれてる。 敗戦して日本(倭)に戻るときに亡命したい百済の人をようけ連れて帰ったそうや。 ここからの、白馬江(ペンマガン、昔の白村江)の眺めは悠々としてて、なんや胸がいっぱいになった。 続きます。 今日のラッキーくじは、両方ハズレやった。 人気blogランキングへ ええかなと思わはったら、クリックよろしゅうに!

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