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シーン 3 「紬」 つむぎ 原爆の惨事から八年が過ぎた。 日本の屋根と言われる長野県。 諏訪湖から流れる天竜川に沿って伊那盆地が開ける。 南アルプス、中央アルプスの気高き父に見守られ、小さな町や村が慎ましやかに佇んでいる。山間から吹く風は季節の訪れを告げ、色づく木々を通り抜ける幸の風だった。 茂夫は原爆の後遺症に診回れることもなく、農園を経営する家で家族と共に暮らしていた。 けれどこの時すでに、駆逐艦で被爆した仲間全員が、後遺症で亡くなっていた。 茂夫は時々、兄の公男につぶやいた。 「俺は運がいいのかな? それとも・・・」 ある時、寺の大黒様(僧の妻)を通して、茂夫に見合いの話がやってきた。 「いい娘がおるで、どうかな?」 家族のすすめもあって、茂夫はその娘と会うことにした。 隣村の大谷令子は、小柄で色白の娘だった。 零れる笑みからは、畦道に咲く小花を見つけて、にっこり微笑む可憐さが滲み出ていた。 茂夫はそんな令子に一目惚れをした。 令子が住む村は、天竜川に沿うように民家が点在しており、高台にある大谷家からは眼前に広がる嶺々を背景に、堂々たる天竜川を眺めることができた。 当時の大谷家は土と向かい合う傍ら、蚕(かいこ)を育てていた。 蚕はやがて繭になり、繭は紡がれて糸になる。 糸で織られた布は繊細であたたかく・・・時に儚い。 茂夫は自分が求めていた女性が、目の前に凛と存在する事に喜び、まっすぐに気持ちを伝えた。 一方令子は、あまりに茂夫が眩しくて、果たして自分にふさわしいのかと、俯くばかりだった。 けれど、二度、三度、茂夫の包み込まれるような眼差しを浴びる度に、令子の頬は赤く染まった。 胸の高鳴りを悟られまいとする健気と裏腹に、乙女心は綿のようにふわふわと膨らんだ。 「そんなにじっと、見つめんでね」 紡がれたふたりは、展開される風景を幸せ以外の言葉で感じることはできなかった。 令子は日増しに美しく咲いた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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