カテゴリ:日本映画人列伝
こんばんは、映画狂のモイラでございます。 今宵は、「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三について、駄文をちょいと…… 牧野省三は1878年(明治11年)、京都生まれ。 父が約300坪の芝居小屋・千本座を家の敷地内に持っていたことや、 母が娘義太夫の名取であったことから、 幼い頃から芸事に親しみ、勉強そっちのけで義太夫や芝居ごっこに明け暮れていたそうな…… やがて1901年(明治34年)、省三23歳の時、千本座を改築し、 自ら舞台に出て、義太夫や芝居(新劇ではなく旧劇)を披露していたのですからすごい! そして25歳の時には、千本座の経営権を母から譲られ、 芝居だけでなく、横田商会という日本映画草創期の映画製作プロダクションの興行で、 当時は活動大写真と呼ばれていた映画の上映も行いました。 これがきっかけで、省三は横田商会から映画製作をしてみないかと言われ、 1908年(明治41年)、「本能寺合戦」で生まれて初めてメガホンをとりました。 1909年(明治42年)、省三は千本座の座長だった尾上松之助を主演にして、 「碁盤忠信 源氏礎」を撮るのですが、 松之助とのコンビ2作めの「石山軍記」では、 松之助の派手な立ち回りと、目玉をぎょろぎょろさせて大ミエを切る演技が大人気となり、 以後、彼は”目玉の松ちゃん”と呼ばれ、日本映画史上初の映画スタアとなりました。 以後省三は、松之助と12年間にわたり、なんと200本以上の時代劇映画を撮り、 中でも人気を呼んだのが、編集技術を駆使したトリック撮影で撮った忍者映画でした。 そして1912年(大正元年)、横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・バテー商会の 活動写真製作会社が合併し、日本活動写真株式会社(日活)が出来るのですが、 その際、牧野省三は日活の関西撮影所の所長となるのです。 そんな中、大スタアの松之助が省三が作る映画にあれこれ口出ししたことをきっかけに、 省三は松之助と袂を分かち、1920年(大正10年)に日活を退社。 牧野教育映画製作所を設立します。 翌年、無名の歌舞伎役者たちを出演させて製作した「実録忠臣蔵」は大当たりし、 今までの歌舞伎のような演出を一切しない、よりリアルで写実的な演出のこの映画を 文豪・谷崎潤一郎は「映画的」だと絶賛したのです。 そして、牧野教育映画製作所は、色々な製作会社との吸収・合併を経て、 1925年(大正14年)にはマキノ・プロダクションとして再び独立。 ”バンツマ”こと坂東妻三郎や片岡千恵蔵などをスタアに仕立てました。 1929年(昭和4年)に入ると、省三はトーキーの使用を試みましたが、 持病の糖尿病が悪化し、メガホンがとれなくなり、 同年7月25日に心臓麻痺で亡くなりました。 わずか50年の生涯でした。 しかし、そのわずか50年の生涯で、牧野省三が世に出した映画人は大勢います。 監督では、内田吐夢、衣笠貞之助、マキノ雅弘(省三の息子)、並木鏡太郎など、 俳優では、目玉の松ちゃんやバンツマ、千恵蔵の他には、 嵐寛寿郎、月形龍之介、市川歌右衛門などなど。 生涯で撮った映画の数は、なんと300本! まさに、「日本映画の父」と呼ばれるにふさわしい人でした。 では、今宵はこのあたりで……おやすみなさいませ。 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 28, 2024 11:39:11 PM
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