【粗筋】
紀州公がお越しになるというので、鴻池善右衛門宅ではもてなしに思案していたが、須磨の浦から涼風を取り寄せるという名案が出た。早速人足達が百棹の長持を持って暑い昼間に大阪を出立、不眠不休で翌朝須磨の浦に付いた。運良く山から涼しい風が吹いてきたので長持に入れて目張りをし、すぐに大阪へUターンしたが、兵庫まで来ると疲れ果て、明朝まで一眠りしてから急いで戻ることにした。
ところが、一人の人足が暑くてたまらず、少しだけ涼もうと1棹を開けてしまう。みんながこれを真似たので、さあ大変、 百棹の長持が空になった。やけになった一人の提案で、自分達の屁を入れて持ち帰る。
さて、翌日紀州公がお見えになり、鴻池では自慢気に長持の目張りを取ったが、涼風どころか異臭が立ち込める。あわてふためく善右衛門に、紀州公にっこりとして、
「かまわぬ。この温気の折じゃ。須磨の浦風が腐ったのであろう」
【成立】
享和4(1804)年、十返舎一九の『商内上手』の「品川の風」。幕末の『新作おとし咄』下巻に「薫る風」があるが、口演されたものかどうか不明。東京では箱根越えで風を少しもらおうとする場面があるそうだが、演じられたのを知らない。はっきり書かれていないが、須磨から江戸まで運ぶのだろうか。
涼風の代わりに屁を入れるという発想が、いかにも上方の噺。桂小春団治が、くまざわあかねに改作を依頼、2001年4月の独演会で取り上げた。
【一言】
須磨の風で涼をとるという昔の人の繊細な美的感覚におどろかされる。(相羽秋夫)
【蘊蓄】
鴻池は、江戸の三井と並ぶ大阪一の金持ち。三井は呉服商の越後屋と合併し「三越」となった。鴻池は酒屋として誕生し、江戸時代にはると海運業、大名の参勤交代の物資輸送を手掛けた。11代目が明治維新後男爵となり、日本生命保険や大阪倉庫の社長等々を勤めた。