【粗筋】
正月の御稽古始めで将軍・家光を負かした阿部豊後守、それきり将軍からは声も掛けられない。9月の観菊会で歌を詠むと、こんどはへつらいだと非難される。豊後守は抗議の切腹をしようとして、家臣・平田軍右衛門に止められる。平田は、戦国の頃共に戦った大久保彦左衛門に相談する。家光は、顔を隠して市中で辻斬りをしていた。弁慶堀で中間を襲うが、相手が強く、家臣と一緒になっても手も足も出ず逃げ出す。翌日、彦左衛門が御前に出て、将軍をかたる辻斬りを、豊後守が退治したことを報告した。将軍は仕方なくこれを褒め、これまでのことを許す。
寛永9年の洪水で、将軍自ら出馬するが、とても墨田川を渡れない。馬で乗り切れとの下知に皆が挑むが、渡り切ったのは、豊後守と平田の二人だけだった。
【成立】
明治の頃に五明楼玉輔(3)の速記がある。彦左衛門のご意見番としての話がメインかと思われる内容。この辺りの経緯は陳腐な印象。速記を読むと、「おやめ団子」「天保八つ当たり」「目から鼻へ抜ける奈良の大仏の兄弟」等、一瞬分からない洒落が登場する。例に挙げたのはこれでもすぐ分かるやつ。
講談では「寛永三馬術」の一つでたまに聞くが、落語ではとんと聞かなくなった。
【蘊蓄】
家康は柳生と小野派一刀流の免許皆伝で、戦国武将の中でも剣術の腕は相当のものだった。柳生は一刀流の小野忠明にどうしても勝てず、剣術は勝つことが目的ではなく、心を磨くものだと主張した。小野は相手が将軍の子でも容赦なく打ち込んだので、三代将軍となる家光は柳生の詭弁を受け入れた。柳生の免許皆伝を許されたが、そこには忖度があったものと思われる。