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テーマ:落語について(2971)
カテゴリ:落語
【粗筋】 11代将軍・家斎の頃、雲州松江の城主・松平出羽守、俗称不昧公のお話。絵にも書にも通じ、今度は茶の道を学ぼうとするが、あまりに窮屈な決まりごとに辟易して、簡易に飲めるようにする。これが世間にも認められると、調子に乗った不昧公、坊主や家来が相手では詰まらないと、出入りの骨董屋・金次郎を相手に夜明かしをして茶を楽しもうという、「夜話」することにした。そこで耳にしたのが季節外れの風鈴。金次郎から、「あれは蕎麦屋でございます」と教えられ、呼び込んで蕎麦を食うと、 「これ、金次郎。町人は一本箸で食うのか」 「いえ、これはこうして……二本になります」 割り箸をご存じでなかったんで……さあ、食べてみるとこれがうまい。面白がって、すぐに金次郎に頼んで蕎麦屋の荷を作らせ、膳所に命じて蕎麦を打たせる。 「葱をゆでてあったが、町人は食し方を知らぬな」 「はあ、どういうことでございましょう」 「葱は一寸五分くらいに切って四つに裂き、みりんで蒸すようにする。その方がうまい」 って、そりゃそんな手間を掛ければうまいに決まっているんで…… 上出来だとなると誰かに食べさせたい。御三家を呼んで、殿様自ら荷を担いで売りに出る。御三家のお殿様も割り箸をご存じないので、付き添いの金次郎の真似をしようと様子を伺っていると、箸を両手で割るのでなく、片方前歯にくわえて割った。 「なるほど、割り箸と申す物は口で扱うものか」 大名は大名だけの暑さかな……不昧公夜話というお噺でございます。 【成立】 明治の頃の五明楼玉輔(3)の速記がある。 【蘊蓄】 五明楼玉輔(3)は嘉永元年2月26日生まれ。母は古今亭志ん朝(2)の姉で、父も馬きんという噺家だった。芝居噺の名手といわれた金原亭馬生(3)の弟子となって、馬勢、後に父の名を継いで馬きん(2)となった。師匠は馬きんの才能を認めて、跡継ぎにすると回りにも話していたが、馬きんが地方に出ている間に馬生が亡くなると、同門の林々亭馬勇が勝手に四代目を継いでしまう。 回りからの苦情があって、馬きんが帰京すると馬生を譲りたいと申し出があったが、馬きんは「腐った名前はいらない」と言って、五明楼玉輔を名乗った。これが明治8年頃だという。それからは人情噺の名手として、明治17年には東の筆頭に位置付けられ、三遊亭円朝、春錦亭柳桜と並んで三名人と呼ばれた。明治26の番付でも東の大関となっているが、昔ながらの古い語り口で人気は低迷、政府の鑑札では二等にランク付けされており、明治33年に講釈師になるがこちらも売れず、再び噺家に戻って明治39年高座から引退。引退後も楽屋に現れて更新を指導していたのを、三遊亭円生(6)が幼時に見て記憶している。大正7年10月19日没。 「隅田の花」「角田川誉の駒」などの人情噺が残っている。「開明奇談写真廼仇討」は写真が珍しかった時代に人気となったが、写真に切り付ける部分だけが「写真の仇討」という一席になっている。
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Last updated
2026.06.06 05:33:02
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