・金鉱発見後は、立石藩の直営事業として 採掘を経営。
鉱山は大いに栄え、付近は人口7000人の街となったともある。
・元禄年間(1688~1703年)になって、鶴崎の仲間善衛門が
大きな自然金(とじきん)を掘りあてたが、20日ばかりで 出止んだ。
・その後、下村の冨部家に経営が移り、またここで 無類の自然金を掘りあてる。
しかし、大雨により坑道は崩壊・水没してしまい 手を尽くしたが、
水が多くどうする事もできず そのまま、打ち捨てられる。
・享保年間(1716~1735年) 立石の萬屋庄吉(胡麻津留庄右衛門種房)が、金塊を掘りあてる。
10貫入りカマスで 12個×12日間掘り出した。 (10貫は、約37.5kg)
この利益により、田畑山林等を買い入れ 領内一の富豪となる。
・宝暦3年(1753年)豊前中須賀の織屋が、大金脈を掘りあてる。
ところが、立石領を「天領」とする計画を聞きつけ、
立石領では 『鉱脈は既に掘りつくした』 として、以後 休鉱とした。
・その後、数名の人々が度々、掘ったが 資金が続かなかったり、坑内の亜硫酸ガスに悩まされ
金鉱まで掘り付いた者はいなかった。
(参考文献 山香町誌 第5章 鉱業 第二節 馬上金山より)
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