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馬上金山の歴史(山香町)

国東半島 ゴールドラッシュの歴史
 山香町 馬上金山の歴史 

大分県速見郡山香町(現在は、合併により杵築市山香町)の歴史は、金山の歴史抜きにしては語れない。

ゴールドラッシュに沸いた馬上金山の他にも 古くから鉱山採掘の 古い歴史を持っている場所である。

山香町の調査によって判明しただけでも 山香町周辺の採掘坑(水平坑・斜坑・立坑)が
100ケ所以上確認されている。
この数字だけ見ても 古くから鉱山採掘が いかに盛んであったかを推定する事が出来る。
                                       (参考文献 山香町誌 第5章鉱業 第一節 山香町内の休廃坑より)

【馬上金山採掘の歴史】
 いつ頃から、金採掘が始められたのであろうか。

 山香町誌に記載されているところによると、『豊後立石史談』には、 
  立石金山は、寛永6年を以って、創始とするものの如くなるも、
  口碑の伝ふるところに依れば、遠く元亀天正の頃、既に砂金採取の事ありしが如し。
  然れども、今何等考証の拠るべきものなきを遺憾とす。・・・・とある。
       ※寛永6年とは、西暦1629年  江戸時代の初期である。
        元亀(げんき)天正(てんしょう)は、日本の元号のひとつであり 1570年~1593年の間を指す。

 遠く元亀・天正の頃から砂金を採取したいうが、記録に残っているのは
 寛永6年(1629年)伊藤又左衛門が砂金を採取したというのが最初である。
                        (参考文献 山香町誌 第5章鉱業 第二節 馬上金山より)

【馬上金山採掘の変遷】 
 馬上金山開発は、最終的に「成清博愛」の手によって、大きく 日の目を見る事となる。
 それまでの馬上金山は どのような変遷を経てきたのだろうか。

 資料によると、以前にも ある程度 繁栄していた時代もあったようだ。
 藩の事業として経営が移ってから 鉱山は大いに開け、盛んに採掘が続けられた。
 一獲千金を夢見る人々が諸国から群がり集まり 一大金山街を形成していたという。
                        (参考文献 山香町誌 第2編 地誌 第五節 鉱山街の盛衰より)
・金鉱発見後は、立石藩の直営事業として 採掘を経営。
鉱山は大いに栄え、付近は人口7000人の街となったともある。

・元禄年間(1688~1703年)になって、鶴崎の仲間善衛門
大きな自然金(とじきん)を掘りあてたが、20日ばかりで 出止んだ。

・その後、下村の冨部家に経営が移り、またここで 無類の自然金を掘りあてる。
しかし、大雨により坑道は崩壊・水没してしまい 手を尽くしたが、
水が多くどうする事もできず そのまま、打ち捨てられる。

・享保年間(1716~1735年) 立石の萬屋庄吉(胡麻津留庄右衛門種房)が、金塊を掘りあてる。
10貫入りカマスで 12個×12日間掘り出した。 (10貫は、約37.5kg)
この利益により、田畑山林等を買い入れ 領内一の富豪となる。

・宝暦3年(1753年)豊前中須賀の織屋が、大金脈を掘りあてる。

ところが、立石領を「天領」とする計画を聞きつけ、
立石領では 『鉱脈は既に掘りつくした』 として、以後 休鉱とした。

・その後、数名の人々が度々、掘ったが 資金が続かなかったり、坑内の亜硫酸ガスに悩まされ
金鉱まで掘り付いた者はいなかった。
                       (参考文献 山香町誌 第5章 鉱業 第二節 馬上金山より) 

馬上金山は、江戸時代の間に いろんな人々の手によって 金鉱採掘されている事がわかる。

 昔の事でもあり、当然 機械を使った採掘でもなく 手掘りでの作業であったと思われながら
 大きな自然金などが出てくるなどから 金鉱脈にさえ あたる事が出来れば、
 効率の良い金鉱採掘が出来る 稀に見る場所であったと推定する。

 ところが、坑道がだんだん深く延びていくに従って、地底から湧き出る地下水の排水が困難となり
 事業は、ほとんど休止状態となった。

・慶応年間(1865~1867年)から 明治13年(1880)まで 萬屋庄吉(胡麻津留光明 種房から4代目)
馬上の鉱区権を持ち、自ら金鉱採掘に従事するも 目的を達成する事が出来ず。

・明治14年、鉱区権は胡麻鶴 マツの手に移る。

・その後、3~4人の人が 各所を試掘したが、成功せず。

・後に、明治29年(1896年)鉱区権は 熊本県天草の帆足義方の手に移った。
帆足は資金を投じて 採掘事業に着手するも たまたま大洪水にあって揚水困難となり
経営に行き詰まり、難鉱山として 持て余す状態であったという。
                               (山香町誌 第5章鉱業 第二節 3復興より)
明治40年(1907年)帆足義方から「成清博愛」へ鉱区権 譲渡契約が結ばれる事となるのである 

時代は 江戸から明治へと移っても 馬上金山に挑戦するが うまくいかず。
思うに、当時の技術力では 金鉱脈を探り当てるのに 主に『経験と勘』が 多くを占めていたと推定

昔は、『山師』という 鉱脈を探しあてる職業があったと聞く。
ただ、今の時代『山師』とは 良い意味では使われずに、"ヤマを張る"といったような
感を頼りにする または、詐欺師の代名詞のような所で使われているのが残念である。

更に馬上金山採掘進行を妨げる 一番の難航要因となっていたのは、『地下水』であったと考える。
江戸時代 採掘状況の中にいくつか 『地下水』によって難航した記述が出てくる。

 馬上金山攻略の鍵として、以下の事が考えられる。
・金鉱脈を いかに的確に探し当てる事ができるか。時間を掛けて丹念な調査が必要
 江戸時代にも、あちこちと金鉱試掘等 されている事、意外と深部に富鉱が多かった事。
 そこで、残っている有望な場所を いかに的確に採掘できるかどうかが 勝敗を左右する。

・いかに『地下水』を攻略出来るか。
 湧水等が かなり多かった『金山』であったようで 地下調査もさる事ながら
 この金山に見合う 深部からでも排水できる ポンプ能力でなければならない。
  帆足義方が鉱区権を取得後、採掘に排水ポンプを使用していたようだが、
  使用していたポンプは、排水能力不足で とても太刀打ち出来る状態ではなかったのだろう。

・設備投資含め、莫大な費用が掛かる事業であり、投資資金調達がうまく出来るか否か
 『投資出来る財力の有無』も成功出来るかどうかの鍵である。
 砂金採取が始まってから、馬上金山鉱区権が「成清博愛」の手に渡るまでには、
 少なくとも、約290年~300年という長い歳月が経過した後の 明治40年の事であった。

  【当時の馬上金山】 (大正8年 成清博愛氏銅像除幕式当日)  大字下会館展示写真より
当時の馬上金山 (大正8年 成清博愛氏銅像落成式の日)

  【現在の馬上金山跡】
現在の馬上金山(国道10号線より見る)



馬上金山跡


 引用・参考資料 :   山香町誌 (大分県杵築市)を引用・参考資料とさせて頂いております
        協力 :   的山荘 成清様  /  山香町 金山下 松島様・平様
              杵築市教育委員会 / 山香町 観光協会 / 山香町町誌編纂委員会
              
   当時の写真は、大字下会館 (山香町) に掲示されている写真を 杵築市の許可を得て掲載
   
 本内容を掲載にあたり
    的山荘 成清様 ・杵築市・へ事前に 掲載了解を得た上で 掲載させて頂いております。

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