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宇佐海軍航空隊


国東半島 戦争のキズ跡

      鎮魂の祈りを捧ぐ≪宇佐海軍航空隊≫    

  いつものように 何事もなく平和で過ごせる日々。
  ところが、ここ最近 北朝鮮のロケット発射、核実験再開と 連日のニュース報道で、
  海を隔てた隣国 日本は、一時騒然となった。 

  「核物質」という科学物質は、人間が作ったものでありながら、平和利用すれば、
  生活を豊かにする事もできるのに、使い方を誤ると 核兵器にもなってしまう。
  使い方を一歩間違えると・・・・・
  人類そのものまで 一瞬にして滅亡に導く 恐ろしい物質である事を忘れてはいけない。

  私達の住む日本は、過去に悲劇の歴史をもつ国であり、他国以上に これからも平和である事を願う。
  そのためにも、
  過去の悲劇を 再び繰り返す事のないように、悲しい歴史でも 後世に伝えるべきだと思う。
  
  この "仏の里 国東半島"にも、悲劇の舞台となった場所がある。
  
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  平和でのどかな 全国 八幡社の総本山 宇佐神宮がある宇佐平野。
  この宇佐平野にも 第二次世界大戦時代に 惨劇が繰り広げられた歴史を持つ場所がある。
  誰もが、田畑の広がる風景を見て、この場所で 戦争の惨劇が繰り広げられた事を想像できるだろうか。

  今から、約70年前、この宇佐平野に日本海軍部隊 「宇佐海軍航空隊」と 「飛行場」があったのだ。 
田畑が広がる宇佐平野 (旧滑走路脇より)



  「宇佐海軍航空隊 開隊は1939年(昭和14年) 当初は、実用訓練飛行場」
  海軍は、戦備増強・航空隊の増設計画から 当時の宇佐郡柳ケ浦村地域に 飛行場を建設した。
  ここに飛行場が建設されたのは 周防灘に面する事で、洋上爆撃や魚雷訓練
  航空母艦を招いての発着訓練も 頻繁に容易に実施できる 立地条件の良さからであると思われる。

  「当時の飛行場規模」
  当時の飛行場は 柳ケ浦地区を中心に 規模は、東西1.2km  南北1.3kmで 約150haあった。
    当時の滑走路は、長さ 1,800m  幅80mであった


  「戦時中の滑走路が、今では生活道路へと変貌」
宇佐海軍航空隊 滑走路跡
  言われなければ 以外と気付かないで通り過ぎてしまう位、今では 飛行場の痕跡がない。
  日常、毎日利用している生活道路が まさか、昔は滑走路だった場所であるとは思わないだろう。
  測ってみると、日豊本線の線路陸橋から 先端のカーブする所まで 約1,800m近くあり
  ずっと直線のまっすぐな道が続く。
  現在では、道路の両脇に、"滑走路跡"を示す石碑が 整然と並んでいるので 場所はすぐにわかる。


宇佐海軍航空隊 滑走路


  「訓練用飛行場から、実戦飛行場へ」
  太平洋戦争の戦況悪化・本土空襲激化にて 訓練用飛行場から、特別攻撃隊の基地へと変貌する事となる。
  当初 隊員800名程度であったのが、2486名規模の大部隊基地となり、
  この地から神風特別攻撃隊を編成し、154名もの若い兵士達が 体当たり攻撃の任務を背負い
  国東の空より 飛び立っていったのである。



  「城井(じょうい)1号掩体壕(えんたいごう) 史跡」
城井1号掩体壕

  掩体壕(えんたいごう)とは、戦闘機を空襲から守るコンクリート製の格納庫である。

  現在でも、この宇佐平野 滑走路跡脇には、飛行機を格納しておく 掩体壕が いくつか残されている。
  そのひとつが、「城井1号掩体壕」である。 規模 : 幅21.6m  奥行き14.5m  高さ5.4m
   掩体壕の表面には、盛り土され芝生が植えられている。
  当時としては、上空を飛来してくる米軍機から見えにくくする為のカモフラージュだろうか。

  宇佐市は、戦後50年を節目に この負の遺産を 「戦争と平和を考えるシンボル」として
  後世に残すために この掩体壕を史跡として周辺も含めて保全整備している。

  この掩体壕の中には、ゼロ戦」プロペラ部分が 置かれている。
   → 国東半島沖で、漁師の網にかかり 引き上げられたものだという。

零戦プロペラ (国東沖で引き上げられた)

城井1号掩体壕



  「滑走路跡周辺の掩体壕」
  こういう掩体壕は、現在でも 10基ほど現存している。
  城井1号掩体壕のすぐ隣にも 1基あり、現在では倉庫代わりとして利用されている。  
農機具倉庫となっている掩体壕 (城井1号掩体壕横) 掩体壕 (城井1号掩体壕より 少し離れた場所にある)

掩体壕 (正面と右側に 横向きになった 掩体壕1基が見える) 掩体壕 (大型機用)



  「わずかに残る 戦争の痕跡」
  城井1号掩体壕から、北東方向へむかって、柳ケ浦高校に程近い所に
  一般の住宅に紛れるように 密かにたたずむ建物や 痕跡が残されている。
  この看板が目印  (フラワーロード沿いに立つ)
目印の看板

  
  ・レンガの建物
  パラシュート工場であったとされる。
  住宅が立ち並ぶ中に、レンガ作りの建物がある。
  最初は、まさか住宅地に? と目を疑った。
  時代の流れと共に レンガ建物周辺に住宅が建てられたのだと気づいた。
  
  今でも、この建物の壁には 機銃掃射の弾丸を受けた痕跡がはっきりとわかる。
  建物の壁に はっきりとした痕跡がある。 (丸印部分)
機銃掃射による弾痕跡 (パラシュート工場と言われている)


  「弾丸の痕跡(拡大)」
弾痕跡


宇佐海軍航空隊(レンガ造りの建物)


  ・無線受信室 
    草に覆われて 明らかに周辺は違う ちょっと異質な雰囲気のする場所である。
    周りを柵に囲まれて 建物の土台のような形で残っている。
    中を見る事は、できないが 建物の半分以上は地下に埋まっており、極力地上部分の露出を抑えて
    空襲に耐えるような構造で、無線を傍受していたのであろうと推定する。
無線受信室跡 (宇佐海軍航空隊)



  ・電信室
    無線受信室の近く、田園が広がる中に周りを緑に覆われ ちょっとした盛り土をしたような
    古墳であるかのような部分が電信室である。 
    後ろ側へまわり込んで見ると、長方形をしたブロック作りの口が 3つ見えてくる。
    ここから、モールス信号を発信していたのでしょうか?  
電信室跡


   その他にも、エンジン調整室などが 周辺に痕跡が現存しているとの事
   また、当時は この周辺に、格納庫や隊舎などもあった。



  「米軍機の標的 : 激しい空襲を受けた宇佐航空隊」
  記録によると、東京大空襲があった 昭和20年3月10日
  その8日後の 3月18日 宇佐航空隊が米軍機による最初の空襲を受ける。

  甚大な被害であったは、翌月4月21日 米軍 B-29爆撃機による空襲であった。
  航空隊は、壊滅的被害を受け、軍関係者 死者 約320名
  周辺住民の死者多数であったが、正確な数字は 未だ不明のまま。
  その時に、現: 柳ケ浦小学校  現: 柳ケ浦高校も被害を受け炎上してしまった。

  その後も、:継続 頻繁に空襲を受けている。 
    空襲があった日 :  4月26日、5月7日、10日、14日、8月8日
  この空襲の様子から、宇佐航空隊は 重要拠点のひとつに挙げられていたと思われる。


  「昭和23年 米軍機によって撮影された宇佐航空隊周辺」
  まだ、生々しい爆撃の跡が、あちこちに残っている中、飛行場外周では除々に田畑へと
  変化しつつある。
  
飛行場に落とされた爆弾の跡 (昭和23年 米軍撮影)
  集中爆撃を受けたこの地は、今現在 毎年豊かな実りを 人々に与えてくれる
  広大な農地へと 変貌をとげている。 
  あの痛ましい戦争の傷跡や いやな記憶を 全て消し去ってしまったかのようである。



  「人間爆弾 桜花」
  「桜花」は、大日本帝国海軍が太平洋戦争中 昭和19年に開発
  昭和20年より実戦投入された特攻兵器であった。
  機首部分に爆薬を搭載し 目標付近までは母機で運び その後切り離して 搭乗員が誘導
  目標に体当たりするという 今考えれば 人命を無視した兵器である。

  母機から切り離し後、火薬ロケットなどで加速、ロケット停止後は滑空で 敵艦へ突進する。
  航続距離は、桜花11型では 約37km 、 高度7000mからの投下で航続距離 約60km程度。
  1.2tの爆薬搭載した機体を運ぶ 母機も大変で、最高速度は300km程度しか出ず
  レーダー性能のすぐれた米軍に察知され 敵艦近くに到達するまでに
  母機共に撃沈されてしまう事が多かったとされる。
  片道キップで搭乗していく戦闘員。 言葉にならないほど辛い任務であった事であろう。

  昭和20年2月 この桜花による特攻隊 神雷部隊が 宮崎 赤江基地より ここ宇佐航空隊へ
  移動してきたとある。

  空からの特攻隊もあれば、艦船から出撃する 人間魚雷 「回天」という特攻もあった事を
  忘れてはいけない。  (山口県徳山市の沖合 大津島に回天の訓練基地があった)
  魚雷の中に一人の人間が搭乗し 操縦しながら 敵艦へ突っ込んでいくのが「回天」である。
  
  日本の敗戦色濃くなってくるに従い、その時代背景や やむをえない事情があったにしろ、
  人間の命までも兵器の一部として利用したのが 太平洋戦争である。


  < 宇佐航空隊で見られた主な軍用機 >

      中間練習機 : 初歩練習機から実戦機の練習に進む中間課程で使用
                93式陸上中間練習機 全長8.05m  全幅11.00m  全高3.20m
                          最高速度214km/h  航続距離1,019km

      艦上攻撃機 : 水平飛行により魚雷や爆弾で攻撃
                97式艦上攻撃機 全長10.324m  全幅15.30m  全高4.24m
                          最高速度380km/h  航続距離1,020km

      艦上爆撃機 : 急降下により爆弾や機銃で攻撃
                99式艦上爆撃機 全長10.196m  全幅14.365m  全高3.847m
                          最高速度428km/h  航続距離1,050km

      艦上戦闘機 : 機銃による敵機撃墜が主
                零式艦上戦闘機 全長9.121m  全幅11.00m  全高3.57m
                          最高速度565km/h  航続距離1,920km

         桜 花 : 人間爆弾
                全長6.07m  全幅5.12m  全高1.16m 機体前部には、1,2t爆弾搭載
                          最高速度648km/h  航続距離37km



  「奇跡的に難を逃れた蓮光寺 "生き残り門"」
蓮光寺 生き残り門
  現在の柳ヶ浦高校より 東約500m程度 柳ケ浦郵便局の角を曲り 駅館川(やっかんがわ)方向へ行くと
  蓮光寺(れんこうじ)に 「生き残り門」がある。

  1945年(昭和20年)4月、終戦の4ケ月前 米軍による空襲で 航空隊があった一体は、
  焦土と化し壊滅的被害を受けた。
  蓮光寺も被害を受け、本堂などが焼失してしまったが この門だけは 奇跡的に難を逃れた。 
  この事から、「蓮光寺 生き残り門」と呼ばれるようになった。

  安政2年(1855年)に建立された歴史的建造物であったが、1945年(昭和20年) 4月21日 午前8時25分
  B-29 爆撃機による空襲によって 本堂などが全壊するが、この門のみ奇跡的に倒壊せず 残る。
    (蓮光寺 山門 及び宇佐市説明書き立て看板より)

蓮光寺 生き残り門



  「後世へと語り継ぐ強い思い : 爆撃の爪痕 "爆弾池"」
爆弾池 (戦時中に落とされた爆弾跡に水がたまり小さい池となる)
  爆弾投下で出来た 無数の穴は 今では埋められて農地へと姿を変えてしまっている。
  ただ1ケ所だけ、爆弾投下で出来た穴が 今でも 残されている。
  その地には、白い標柱、目印が建てられており "爆弾池"との記載がある。
  雨が降ると、この穴に水が溜まり 約10m程度の丸い池となる事から こう呼ばれている。

  今まで、埋められる事なく 現在に至るまで残されているのは、
  「悲惨な戦争の思いを後世に語り継ぐ」 「語り続けてほしい」
  所有者の 強い思い・願いが込められた場所だからなのである。

  ◎余談だが、私が小さい頃、今は亡き おばあちゃんが 少し話してくれた事がある

  「米軍機が編隊を組みながら 上空を飛んで行くのを見た」とか、
  人が歩いているのを見つけると低空飛行で 機銃掃射してきた 恐ろしい出来事など。
  子供ながらに、「怖い」と思った記憶がある。
  話を聞いた夜、家を狙って空爆されるような 怖い夢を見たりした事を思い出した。

  当時の人々は、ゆっくり寝る事もままならない 恐怖の日々を毎日過ごした事だろう。
  それを考えると、現在は ゆっくり 寝られる事だけでも "平和" なのだと つくづく感じる。
  二度と、このような惨劇を繰り返してはならない。


旧滑走路から見た 掩体壕



  私自身、戦後生まれてあり 戦争を知らない世代である。
  よって、この悲惨な出来事を記するにあたり、「城井1号掩体壕 戦争史跡」に
  記載されている記録・記述・写真を基に 自分なりに編成したものである。

  ≪その他資料≫
    ・大分県の歴史散歩 山川出版社
    ・たむ・たむ(多夢・太夢)ページ 宇佐(城井)掩体壕HP
    ・Wikipedia



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