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きちょくれ よっちょくれ 国東半島

佐田神社・反射炉跡

国東半島 史跡めぐり

≪佐田(さだ)神社と 反射炉跡≫ 

 国道10号線から、安心院(あじむ)方面へ向かうと 佐田(さだ)という地名の場所がある。
   大分県宇佐市安心院町 佐田

 この地域には、歴史的にも 興味のある場所が点在している。

 「佐田神社と反射炉跡」 二つはどんな関係があるのだろうか? と思われると思いますが、 
 歴史ある神社であり、又 江戸末期には技術の最先端を走っていた場所だったのである。

 『佐田神社としての歴史』
  佐田郷の総鎮守社であり、 鎌倉時代に 大友能直により再建され、以後 何回か再興されている。
  神殿は、元治元年(1864年)に改築されて 現在に至っている。
    ※(安心院町教育委員会 説明書き立て看板による)
  ここは、表参道と 脇参道の2方向から 境内へ向かう事ができる作りとなっている
  800年以上の歴史を持つ 由緒ある神社なのである。 



 「佐田神社」
佐田神社入り口 佐田神社



 「佐田社 板碑」
佐田神社境内内 県指定文化財 (右端・右より3番目)
 道路脇より、階段を登ると 佐田神社境内が見えてくる。
 見た目は、石碑が多く 普通の神社のように見えるが、境内には 歴史的 貴重な石碑がある。
 多くの石灯籠が奉納されている ほとんどは 江戸時代の造立であるとの事。

 境内に入ると 四基並んだ石碑である。
 向って、右側の角塔婆には、梵字が彫られており 銘文には 元弘3年(1333)の年号が刻まれている。

 右から3番目の板碑には、正慶元年(1332)年と年号が刻まれている。
 これらの2基は、県指定有形文化財に指定されている。

 以前は、境内に散在していたものをひとつの場所に集めたものであり、
 建立者は 当時 この地域を領有していた 佐田氏であったと思われる。
   ※(安心院町教育委員会 説明書き立て看板による)

  鎌倉時代の終焉を迎える頃に 建立された事になる。



 「佐田神社の鳥居」
佐田神社鳥居

 神社入口にある 鳥居を見ると 裏側にはっきりと 『弘化二年 乙巳九月』 と彫られている。
 調べてみると、 弘化二年(1845年) 時代は 江戸時代後期で、外国より開国を迫られている頃である。
 この鳥居が建立されて、すでに160年以上が経過している事になる。

 この神社には、明治39年10月建立された「日露戦争の記念碑」もある。

 近くに住む おばあちゃんが 
 『秋になると 紅葉がきれいで、たくさんの人々が ここの紅葉を見にくるよ』 と教えてくれた。



 「反射炉跡」

 この神社の境内に、大砲を作る為の 鉄精練用 反射炉があったとされている。

 『時代背景』
 時代は、幕末に近づいている頃で 外国からの艦隊等が出没するようになると
 国防・海坊の必要性から、外国船に対抗する 精度が高く 飛距離の高い様式砲が必要視された。

 ところが、日本の鋳造技術だけでは、大型の様式砲を作る事は困難で
 外国式の溶解炉が求められた。
 外国の技術者を招く事もできない時代であり、オランダ技術書などの書物等を参考に作り始めたとされる。

 技術の差はあれど 砲身を鋳造するために反射炉が 藩中心で各地に造られた。

 反射炉とは、 熱を発生させる燃焼室と精錬を行う 炉床が別室になっているのが特徴で
 燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させ 金属の精錬を行う炉である。
   (Wikipediaより引用)

 正直、これを読むだけでは 私もよく構造が理解できないのだが、
 この方式が 当時では 金属精錬の最先端であったようである。


 この佐田地区には、"民間で大砲を作った" とされる偉人がいた。

国東半島 以外と知らない偉人
      ≪賀来惟熊・賀来飛霞≫    

  国東半島には、地元に住んでるのに 以外と知らない、偉大な人が生まれている。
  賀来惟熊 ・ 賀来飛霞 の両名である。
 
  江戸末期幕末、明治と波乱の時代に生き、故郷を大事に思い、人々の為に尽力を尽くした人物である。
  私は、調べていて そんな感じがする両名である。

  名前を、賀来惟熊 [ かく これたけ ]  惟熊の従兄弟にあたる 賀来飛霞 [ かく ひか ] 

  両名が、どんな偉業を成し遂げたのか?


  賀来惟熊氏

  今でいえば、公益事業家、砲術家というべきであろうか。
  1796年、宇佐郡佐田村(さだむら)  現在の宇佐市 安心院町 左田で生まれる。
    ※当時は、島原藩の飛び地領であった

  農業や ろう絞り、酒造を行い 所有する山林の、植林事業などに従事。
  植林事業の重要性を説き、井堰(いせき)の復旧、貯水池の築造や宇佐神宮の改築にも尽力を尽くす。

  この人の偉大な所は、江戸時代に 民間で唯一の反射炉を作り 鉄鋳造にて大砲を作ってしまった事。

  日出(ひじ)藩に 帆足万里(ほあしばんり)という蘭学先生のもとで西洋学問を学んだ事が
  賀来惟熊氏が 偉大な事業を成し遂げ、成功させられた一因であったと思われる。
  思うに、知識を得るだけでなく 常に研究熱心であったに違いない。合わせて財力もあったのだろう。

  1853年(嘉永6年)に、反射炉の建設に着手  (歴史上有名な ペリー来航の年)
  その2年後の1855年(安政2年)に 左田村の"宮の台"に 鉄鋳造の反射炉を築き、鋳造を始める。
      (江戸では、安政の大地震があった年)
  そのわずか、3年後には、大砲の鋳造に成功させているとの事。

  初めは、6ポンド砲 4門、 12ポンド砲 2門、 18ポンド砲 2門の合わせて 8門を造るのに 2年を要す。
  最終的には、100門を超す数を造ったとも言われている。

  反射炉は どこに建設されたのだろうか?
  残念ながら、現在は 当時の反射炉は跡形も無く 姿を消している。
  佐田神社の どこかに造られていたと思われる・・・・との記述があるのみである。


  「唯一の痕跡、反射炉の使用レンガが現存 佐田神社

  唯一、反射炉を築いていたレンガの一部が 神殿裏の土塀に 積み上げられている。
  レンガ表面を見ると、今でも艶のある状態であり、高熱によって レンガ表面が溶損したような
  独特な感じが見受けられ 明らかに普通のレンガ表面と違う。
反射炉に使用されたとされるレンガ


      ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  ~  

  賀来飛霞氏(かく ひか)

  江戸時代後期~明治時代前期の植物学者であり、医者であった。   
  国東郡高田  現在の昭和の町で有名な豊後高田市生まれ
     ※当時は、島原藩の飛び地領であった

  その後、現在の杵築市に移り住み、同じく 帆足万里(ほあしばんり)より 本草学などの学問を学び、
  本草学については江戸まで出向き 学んでいる。
  医学は、シーボルトより学んだとされる。
  1844年(弘化元年)には、左田村で医者として生活。
  1876年(明治9年)には、小倉県 第八大区医務取締役となり、宇佐郡立 四日市病院長兼医学校長となる。
  1878年(明治11年)には、東京大学小石川植物園の取調掛となり、植物の調査に専念。
  日光や東北方面まで 調査に足を延ばしているとの記述もある。
  退職後、晩年は 佐田で過ごす。 近代植物学の基礎を築いた人物とされる。
  『高千穂採薬記』 『杵築採薬記』 など、著書を数多く残している。

  二人共、私の調査範囲では 不明点も多いが、早くから西洋の学問を学び、
  行動範囲を見ると 当時としては移動手段もない時代 苦労しながら自分の足で歩き
  各自の学問を高めていった 偉大な人物であるといっても、過言でないだろう。


   ≪資料≫ 下記を参考にさせて頂いております。
     安心院町教育委員会 説明書き立て看板
     大分県の歴史散歩 山川出版
     百科事典『Wikipedia』




峠の本格的カレー屋さん ぽから
私のお気に入りのお店   大分県 宇佐市正覚寺1199-1  
             定休日 : 火・水曜日(祝祭日は、営業)
            営業時間 : 12:00~20:00 


佐田神社・反射炉跡(大砲作り)

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