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2017.10.20
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カテゴリ:ジャズ


美空ひばり・シングス・スタンダード(2CD)
 女王美空ひばりのスタンダード集2CD。録音データがないのでハッキリしないが、1960年代頃までの録音と思われる。中にはSPからのダビングもあり(上海、アゲイン、エル・チョクロ)、スクラッチ音もあって貴重感もひとしお、といったところ。全32曲中、10曲で原信夫とシャープス・アンド・フラッツがバックを務めている。また、歌詞は16曲が日本語、5曲が英語ないし原語、残りは日本語と原語のチャンポン。
 圧倒的な音楽性で、人々を勇気づけた、永遠なる美空ひばり(原信夫)
 歌謡界の女王として君臨しつづけた美空ひばリ・・・
  ”幅の広ざ”と”奥の深ざ”を兼ね備えた音楽センスは
  あふれんばかりの彼女の才能を物語る
  戦後、激動する時の流れのなかで
  原信夫さんはそんな天才と出会った・・・
 昭和40年代だったと思う。僕は仕事柄アメリカのジャズミュージシャン達とのつき合いが多いが、あるコンサートのあとの酒の席で、日本のジャズシンガーのことが話題になった。そこで彼らにいろいろレコードを聴かせた中で美空ひばりの「スターダスト」が賞賛の的になった。ひばりが何者か知らない彼らが、「彼女こそ真のジャズシンガーだ」と褒め称えたので、僕達も「やっばり」と、あらためて納得したものである。1951年(昭和26年)に「原信夫とシャープス&フラッツ」を10名で結成してからなんと50年という半世紀もの歳月が流れて、今考えるとそれは恐ろしく長かったようにも、あっという間だったようにも思える。終戦後6年が経ち、日米講和条約が結ばれたが、まだまだ膨大な数の米軍が日本に駐留していて、彼らの慰安の為に米軍のクラブが日本中の各地に沢山あった。兵隊達はそこで音楽やダンスを楽しみ、飲んだり食べたりしてくつろげるのだった。僕達がジャズを演奏する仕事場は当時「進駐軍」と呼ばれていた彼らが集まるそういうクラブだったのである。結成当時の僕達は皆若くて、アメリカから進駐軍と共にどっと入ってきたアメリカのジャズに夢中にはなったものの、ジャズについての知識はまったく乏しかった。教えてくれる人も無く、楽譜もレコードも手には入らないという何の資料も無い状態で、クラブで時々貰う楽譜や、クラブマネージャーが本国から取り寄せてくれるレコードだけが頼りだった。当時のことだから勿論、録音する機械も無いし、唯々繰り返しレコードがすり切れるくらい聴いて勉強して実力をつけていったものだった。シャープス&フラッツはほどなく、若手の新進バンドということでジャズコンサートデビューも果たし、進駐軍のクラブを離れて、日本人相手の劇場や、コンサートに出演することが多くなった。昭和20年代も終わり近いその頃、僕達は既に何人かの日本のジャズシンガー達とのつき合いがあり、なかでも江利チエミとの仕事が多かった。少女時代の江利チエミに出会ってから、彼女の要望で一緒に日本中をツアーで回ったのは昭和30年頃だったと思う。ティーンエイジャーのチエミは当時売れっ子で、どこのラジオ局だったか「パピリオアワー」という帯番組に出演していて、その録音取りはいつも麹町の番町スタジオで行われた。日本テレビの近くのお屋敷町にある番町スタジオは今のような近代的な設備は無く、木造のしもた屋風だったような記憶がある。ある日「パピリオアワー」の録音に、番組のゲストとして美空ひばりがやって来たのである。ここいらで「お嬢」と「チーチャン」にしないと話はやりにくくなる。誰もが知るとおり二人は仲よしだったから番組のグストとしては最適だっただろう。チーチャンはジャズを歌っていたから僕達にとっては何の違和感も無く一緒に仕事をしていたけれど、お嬢については僕達は「演歌の歌手」という意識しか持っていなかった。お嬢に会ったのはこのときが初めてだった。ゲストであるお嬢がそのとき歌ったのは「日和下駄」で、伴奏をしたのは勿論シャープだったが、曲のなかで「ブレイク」といって伴奏が何小節かパッと止まって歌だけになるところがあり、その部分の彼女のリズムの乗りの良さ、タイミングの正確さに僕はアッと驚いた。「これはただ者ではない」というのが正直な感想だった。当時のジャズミュージシャンは忙しいこともあり、ジャズのフイーリングのことしか考えなかったから歌謡曲や演歌に耳を傾けることも無く、伴奏もしたがらなかったし、ほとんど交流が無かったと言ってよい。ところがお嬢の「日和下駄」を聴いてから、僕の気持ちには少し変化が起こっていて、後日お嬢のママから、「ねえ、原さん、たまにはお嬢の伴奏もしてよ」と乞われたときも、「いいですよ」と言ってしまったし、チーチャンも「やってあげてよ」というので、お嬢とのつき合いが始まることになった。昭和30年代に浅草国際劇場、大阪大劇、と大劇場でのお嬢とのステージを共にしつつ、彼女の歌唱力には毎回驚かされていた。どんな舞台でも気を抜かず、いつもベストの出来栄えというムラの無さは常人のできることではない。そしてステージで我々に背中を向けて歌っている彼女からオーラのようなものが発せられ、びんびんと感じられるのである。これは、ナット・キング・コールが来日公演をしたときにも同じような経験をしたが、このようなことは滅多にあるものではない。彼女の音楽性の幅の広さは前に書いた「日和下駄」でも良く解っていたが、そのうちにお嬢のママが「原さんとのレコードがあってもいいねえ」と提案をしたのがきっかけで、いわゆる洋ものもレコーディングすることとなり、『ひばりとシャープ』というタイトルで「虹の彼方に」のようないわゆるジャズのスタンダードや、「セ・マニフイック」「ダニー・ボーイ」「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」のようなもの何曲かのレコーディングをした。これほど見事にしみじみと心に泌みわたる歌を歌う人がいるだろうか。これは全曲日本語で歌ったため、原語でないということで残念がる人もいたが、大方の日本人の為には良かったと思っている。このレコードで彼女が自分の持ち歌だけでなく、何でも歌えるという幅の広さが一層はっきりしたので、引き続き『ひばり世界を歌う』『ひばリジャズを歌う』をレコーディングした。その中の1曲がアメリカのジャズミュージシャン達が驚いた「スターダスト」である。彼女は特に英語を勉強したわけでもないのに、その天性の耳の良さがアメリカ人をさえ驚かしたのである。天才、とは彼女のような人のことを言うのだけれど、それだけではなく、彼女は努力の人だった。人と違うのはどんな場合でも短い時間に確実に覚えてしまう才能だった。「私だって練習するのよ。寝床に入ってからだって振りを考えてやってみるのよ」と僕に言っていたことを今でも覚えている。いつも感心するのは、テレビのビデオ撮りで時間の制限上、前奏、間奏、歌の長さをいろいろ変えるときのことである。普段歌い慣れた歌の長さをいろいろ変えるとイザ本番というときについ間違えてしまうことは誰しも往々にしてあるものだ。それも1曲ずつ撮るのでなく番組1本を続けて撮るときに途中でそういうミスがあると、大変な手間になってしまう。が、彼女は、最初の打ち合わせであの歌はどう、この歌はこう、と寸法が決まると、一時黙って噛みしめる様子である。そうすればもう絶対間違えることはない。テスト、本番とスラリと行く。また、彼女はまことに内気で控え目な淋しがりやだった。あけすけにズケズケものを言ったりはしない。快く人を受け入れる優しい人なのにこの良い面があまり知られていなかったのは残念である。ステージでバンドの譜面台から楽譜が1枚ひらりと落ちたりすると、目立たないようにソッと拾って戻してくれる気遣いがあった。いつも皆の仕事を気をつけて見ていて、さりげなく手助けをする気配りの人だった。そのうちに、ママから、「原ちゃん、お嬢に歌を作曲してよ」と頼まれた。あまり得意ではなかったが、何曲か彼女に作曲もした。その中の1曲が「真っ赤な太陽」である。当時親しくしていたブルー・コメッツの井上大輔に編曲を頼み、バックを歌って貰うようにした。お嬢は最初「これ私の歌じゃないわね」と言っていたけれど、今迄のお嬢とはまったく違うイメージチェンジに歌はアレヨアレヨとヒットしてしまい、彼女とブルコメも楽しんで歌ってくれるようになった。その矢先に、シャープス&フラッツには別の転機が訪れたのである。アメリカのロードアイランド州のニューポートで夏に開催される著名なジャズフェスティバルに出演するように推薦されたのだ。このフェスティバルはジャズを演奏する者にとってはいわば檜舞台であり、日本からの出演はビッグバンドとしては初めてのことで快挙というわけである。我々にとっては願ってもないチャンスであり、それに向けての準備に忙しくなったため、何年か続いてきたお嬢との仕事にも関われなくなって、残念ながら距離を置かざるを得なくなった。一緒に仕事をする機会は少なくなったが、その後の彼女の活躍ぶりは誰もが知るところである。でも不幸にも病を得て、それでも彼女は最後まで頑張り通した。最後まで本当のスターだった。世の中のどれほど多くの人が彼女の歌によって慰められ、力づけられていることだろう。国民栄誉賞も彼女の生前に授与されていたらどんなに良かっただろうと残念でならないし、また、彼女にあまり暖かい目を向けていなかった一部の人達も彼女の残した歌を聴けばきっと新たな感動を覚えるのではないだろうか。美空ひばりは永遠である。
[Didc 1]
美空ひばり ジャズ&スタンダード
 ​https://www.amazon.co.jp/dp/B00EDX20RG
 虹の彼方に(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 ラヴ・レター(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 上海(一部英語歌唱)
 恋人よ我に帰れ(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)(英語歌唱)
 アイ・ラヴ・パリ(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 ばら色の人生(一部英語歌唱)
 セ・マニフィック(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 クライ・ミー・ア・リヴァー(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 スターダスト(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)(英語歌唱)
 アゲイン(一部英語歌唱)
 ダニー・ボーイ(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 愛さないなら棄てて(一部英語歌唱)
 ブルーベリー・ヒル(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 A列車で行こう(一部英語歌唱)
 愛のタンゴ(一部英語歌唱)
 慕情(演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)(英語歌唱)
  美空ひばり
 (演奏:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)
 COLUMBIA(日本コロムビア) FXCL-41087(GES-12573)
 購入年月日:2002年5月10日(CDクラブ)


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Last updated  2017.10.20 14:28:25
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