テーマ:懐かしのフォークソング(675)
カテゴリ:フォーク
高石友也/坊や大きくならないで 高石友也フォーク・アルバム第3集(+4)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00BKHTR5Q 「帰ってきたヨッパライ」が一世を風靡し、高石友也の「受験生ブルース」が発売され、関西フォークが一大ムーブメントになったのは1968年のことだ。高石友也は、66年に大阪でギターを買い歌い始めた。フォーク・ソングという言葉が流行し始めたばかりの頃のことである。彼は彼なりにフォークの勉強を始めた。そうこうしているうちに、日本の学生のやっているフォークは、アメリカの本場のフォークとは違うことに気付いた。甘チャン学生のやっている表面的な和製フォークそれに違和感を覚えた彼は、飯場という、いわば社会の縮図の中で生活していたこともあり、現実に直面した歌の方により親近感を感じるようになっていった。’66年の夏、彼は初めて一般の人々の前で歌い、多くの人々を感動させた。これを機に、彼は自信を持って歌うようになり、聴いて支持者となった人たちは、彼のために色々な所に口添えして歌う場を提供してくれた。そんな中で、同年9月に彼は、秦政明というう、その後の彼を支える男と出会う。これが関西フォークの幕開けといっていい。関西フォークは、学生だけでなく、もっと幅の広い社会人にも支持された。特に学者、文化人、知識人の強烈な後押しは見逃せない。このパック・アップがあってこそ初めて関西フォークは社会運動と結びつく一大ムーブメントになりえたのだ。加えてそうなる要因は高石の魅力にあったのだ。政治を表現する歌、平和を願う歌だけでなく、彼の幅広いレパートリーは、一般の聴衆をも魅きつける力があったのである。その結果、磁石のように彼のもとに集まる支持者が増えてきた。秦は「時はきたれり」と、’67年4月に高石友也リサイタルを開く。これは大成功を収め、彼の存在を世に知らしめた。また、勢いに乗った支持者はフォークキャンプを企画。こうして彼を軸に、関西フォークは一気に動き始め、怒濤の勢いで大きな流れとなっていった。その流れの上に、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットして、関西フォークは全国的な広がりを始めたのだ。この好機を関西フォークに携わる人たちは見逃さなかった。世にアピールする絶好の機会と考え、関西フォークの“教祖"で“エース"の高石の「受験生ブルース」を売り込んだのだ。素材が新鮮で、受験制度は社会問題だったので、この歌もフォークルに続いて、90万枚の大ヒットとなった。この2大ヒットで関西フォークは一大ムーブメントになったのである。あれから30年が経つ。あの頃の”熱い想い”を今、ここでもう一度聴く価値があるのではないだろうか。(富澤一誠) 坊や大きくならないで お捨てメリンダ 竹田の子守唄 ハッシュ・リトル・ベビイ 血まみれの鳩 明日なき世界 ランブリン・ボーイ 北の国へ 労務者とは云え おいで僕のベッドに ときは流れる 青年は荒野をめざす もしも平和になったなら 死んだ男の残したものは(その1)(シングル・バージョン) 死んだ男の残したものは(その2)(シングル・バージョン) おいで僕のベッドに(オーケストラ・バージョン) イムジン河 高石友也 J-POPランキング
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Last updated
2017.12.13 14:26:33
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