山田永「社長は食べられました」集英社(1000円)
我がクラブの朋友が著した新著。敬語の使い方のハウツー本である。シェークスピアの時代の英語は読めるが、明治時代の日本語の文語体は英語以上に読めない。日本語は英語と違って変化する言語であるからだろう。そういう特質をもった日本語で一番厄介なのが敬語や丁寧語の存在である。 先日この本に採り上げられている敬語や丁寧語の誤用例に出くわした。実は私の母は入院中なのだが、その病院へ看護大学の学生が臨床実習にやってきた。看護学校の学生といえば女性を想像してしまうが、珍しく男子学生であった。1日の研修が終わって帰る際、きちんと病室を回って帰宅の挨拶にやってきた。学生「今日はこれで帰らせていただきます。」母 「明日もお出でになるの?」学生「いや明日はお出でになられません。あさって来ます。」 本書を読んだばかりだったので、思わず噴出しそうになってしまった。「あなたが帰ることに関して許可する立場にありません」「丁寧語と謙譲語と敬語の区別を勉強しようね」とチャチャを入れたくなったが、でも、とてもいい子なんですよ。母から見れば孫のような年頃の学生さん。1日一所懸命に研修に励んで帰る姿は頼もしく映った。男で看護師を目ざす心意気を応援したくなったオジサンから見たら、敬語や丁寧語が多少使えなくともいいじゃないかと、意外にも許してしまう。自分でも超!甘だと思うが、かくして日本語は乱れに乱れ、乱れた状態が日常化することで、国語自体が変遷してしまう。 丁寧語が使えないのは義務教育課程で「国文法」を学習しないからだと思う。私たちの頃は中学1年の国語の時間に動詞の活用形(未然・連用・・とか、「カ行変格活用」だの)から始まって、助動詞へのつながり方などを叩き込まれた。だから、例えば「ラ抜き言葉」が変だと国文法的に理解できる。いまは構文がまったく解からずとも、文章を感覚的に捕らえる国語教育が採られているので、こんなことが蔓延したのだと思う。問題とすべきは、若者たちの世相論ではなく、国語科教授法にあるのではないかというのが私のかねてからの主張である。 ともあれ、人文科学系の専門家ではない私からみて、なぜ間違った敬語の使い方をする人がいるのかを国文法的に分解して見せる本書は、社会科学系のものの見方をする私にとって実に納得できる愉快な本であった。