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台湾役者日記

台湾役者日記

法善寺横丁1

■■ 法善寺横丁の夜 1 ■■ 2004年11月21日(日)



■ 上本町から四天王寺へ


縁日で中古品のメガネを売ってないかと思い、午後から四天王寺の「お大師さん」へ行った。「お大師さん」は毎月21日にあるらしい。

結論。境内一円に各種骨董品を売る屋台やら地べた売りの業者があふれかえっていたが、中古メガネなんてもんはどこにも売っていなかった。子供の頃は売ってたような記憶があるのだが、時代は変わったのだ。

***

四天王寺までは近鉄「上本町」駅から歩いて行った。事前に父から「東門へ至る参道」ルートの話を聞いてたんで、その道を行った。上町筋の1本東側の道。昔は「上本町」駅から四天王寺東門まで、参道沿いにいろんな店が並んでいたと言う。

「上本町」から南下すると途中に上宮高校がある。道はそこで高校敷地に突き当たるんで、迂回しなければならない。上宮高校の先には母校「大阪市立夕陽丘中学校」がある。わたしは上本町で生まれ育った。八尾市へ引っ越したのは高校2年生の時。生玉とか夕陽丘というのは、わたしの「イナカ」なのだ。

当時からこの旧「参道」はすでにただの住宅街と化していて、父の回想するような戦前の賑わいは全く見られなかった。今回ほぼ30年ぶりにこの界隈を歩いてみたが、昔の木造家屋が今では鉄筋住宅や事務所ビルに変わっていて、さらに静かな雰囲気になっていた。せめてなにか「参道」の痕跡がないかと探しながら歩いたが、何もなかった。


■ 五条宮


夕陽丘を過ぎて四天王寺に至る直前に、「五条宮」という神社がある。案内板を読むと「御祭神」は敏達天皇。難波宮の「五条」にあたるんで「五条宮」というらしい。「祭神皇太子時代の御住居跡とも傳えられ」ていると言う。ネットで「敏達天皇」や「難波宮」のことをちょっと調べてみたが、年代が合わない。敏達天皇の在位期間は572年から585年。都が飛鳥から難波に移されたのが652年。「祭神皇太子時代の御住居跡」が「難波宮」にあったというのはおかしい。

案内板には、「當宮は橘氏の祖神を祀る全國唯一の神社」とも書いてある。そこで「橘氏」を調べてみたら、初代橘諸兄(もろえ)、橘佐為(さい)兄弟は敏達天皇の4世孫にあたる。系図を見ると、

敏達天皇―難波皇子―栗隈王―三野王(美努王とも)―葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)

となる。いったい誰がどういう関係でこの地にかかわったのか分からないが、どうもこの神社は、敏達天皇から橘氏に至る系統の人々と深い関わりがあるようだ。


■ 四天王寺


東門から四天王寺境内に入る。毎月21日は「お大師さん」の縁日だ。境内には骨董屋や古着屋が店を広げている。時刻は16時に近い。どの店もそろそろ仕舞いかけの時間だ。

「お大師さん」と言えば弘法大師空海。と言うことは四天王寺は真言宗の寺なのか。と言えばさにあらず。四天王寺オフィシャルサイト四天王寺歴史の最終ページを見ると、「戦後間もなく」「天台宗から独立し、和宗を創立」とある。どうも昔は天台宗だったらしい。天台宗と言えば伝教大師最澄。ではあるが、弘法大師空海もこの寺に来て、「西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄土を観想する『日想観』と呼ばれる修行をはじめ」たりしたらしい(上記「四天王寺歴史」)。そういう来歴があって「お大師さんゆかりの寺」となったのだろう。

このサイトの「四天王寺歴史」を見ていると、次々に面白い記事が出てくる。「保延6年(1146) に僧西念が西門より西海に向かって入水往生」。「ソウサイネンがサイモンよりサイカイに向かって」という語呂の良さが味わいどころのひとつだが、要するにつまり12世紀頃には西門の西側はすぐに海だった、ということではないか。お大師さんはこの「西門(さいもん)」で「西の海に沈む夕陽を拝し」たと言うし、じゃその頃、上町台地以西の大阪市内、ちゅうんはどうなっとったんやと。海の底やないかいと。


四天王寺2004年11月21日

▲四天王寺「西門(さいもん)」
 石の鳥居の扁額には「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」と書いてあるらしい。
 すなわち「四天王寺」全体が「極楽浄土の東門」。したがって「四天王寺西門」は
 「極楽」に正対しているということになるらしいのだ!
 前景人物は全く無関係のヒト。ずうううっとそこに立ってるんで
 悪いな、と思いながらもそのまま撮影してしまった。かんにんでっせ。



四天王寺2004年11月21日

▲四天王寺「亀の池」
 大阪で亀さんを「放逐」、もとへ、「放生」するとなると亀さん的にはここが
 いちばん快適な池になるのではないか。

 


■ ミナミへ


小学校時代の同級生・ナカムラくん、コピーライター兼タロット占い師・エヌ氏の3人で「飲みに行きまひょ」という話になっていて、日曜日であるにもかかわらず、ミナミの地下ターミナルで17時に待ち合わせ。間に合うように四天王寺を出て、「阿倍野」から地下鉄御堂筋線に乗って「難波」へ移動。

ナカムラくん、エヌ氏、それにわたしの3人は、1997年の第4回「食博覧会」で一緒に「オランダ王国ブース」の運営にあたり、「グロールシュビール」を売りまくった「戦友」なんである。わたしが、そしてナカムラくんやエヌ氏がなんで「オランダ王国」で「グロールシュビール」なのか、についてはいつか機会があれば書きたい。

17時過ぎに3人集合したが、すぐにメシ食うにはまだちょっと早い。なんでこんな早い時間に集合するんか? どうやって時間をつぶすか? 「ちょっとショットバーでいっぱい引っ掛けよか」という提案も出たが、「じつはレトロなメガネなんかを探してますねん」とわたしが言うと、エヌ氏が、「ほな、道頓堀行ってみよか。『極楽商店街』っちゅうのんができてんねん。なんや知らんけどあそこやったら古いモン売ってるんとちゃうかぁ」とおっしゃるので行ってみた。が、そこは全然そういうところではなかったのであった。

「道頓堀極楽商店街」は、一言で言えば、「時代設定を『大正時代』に変えテナントをたこ焼き屋やお好み焼き屋、すし屋、カフェといった大阪近辺の老舗B級グルメ店に変えた新横浜ラーメン博物館の焼き直しテーマパーク」である。

エレベーターでビルの5階に上がるともうそこは「大正時代」になっていて案内のオネエサンがマニュアルどおりの説明を述べ立てながらみんなに通行券のようなカードを配る。客はこれを持って中へ入るのだ。場内での飲食や買い物はすべてこのカードで済ませてしまう。最後に外へ出るとき、出口で合計金額を支払うという仕組み。何も買わず飲み食いしなくても、入場料の315円は支払わなくてはならない。

「どないしょ」。ヒマなオジサン3名は、しばし立ち尽くした。「せっかくここまで上がって来てしもたし。しゃあない、ちょっと見ていこかぁ」つうことで、なんとなく入場。『極楽商店街』は5階が出入口で、6階、7階と続いている。場内をうろつきまわったが、われわれ以外はすべて年齢25歳から35歳くらいまでの男女カップルであった。歩いているとあちこちからいろんなもののいい匂いが漂ってくる。「しかし、今ここで腹を満たすわけにはいかんしなぁ」とわたし。ナカムラ氏は、「こんなとこでは食えん」と手厳しい。エヌ氏は、「ここのコンセプトはおかしい」と言い出した。「時代が大正、っちゅうねやったら、もっと明るうてキレイでないといかん。この暗さ汚さは『戦争直後』っちゅう雰囲気やで」。誤解のないように付け加えておくが、『極楽商店街』の設備が汚れているわけではない。壁やテナントの店構えにそういう「汚し」をかけて、当時の「時代色」を出そうとしているのだ。

カレー好きのわたしとしては「難波サンモリッツ」というカレーの店に心惹かれたのだが、「待ってるからひとりで食べてきぃ」とナカムラ君に言われ、そんなわけにもいかないのであきらめた。結局ここでは何も食べず飲まず、われわれは出口で315円支払って外へ出て、「法善寺横丁」の「とらちゃん」という焼肉屋で焼肉を食ったのであった。


大阪道頓堀 2004年3月24日


▲道頓堀
 ただし撮影は前回帰阪時の2004年3月24日。


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